夏と言えば、地元の盆踊りや夏祭りではないでしょうか?
遥か昔からの風習で、特別目新しいアトラクションがあるわけではないですが、鎮守の森に町内の人達が集まり、花火が上ったり、金魚すくいや綿あめ、射的、祭囃子に浴衣姿など、非日常な風景が、いつも印象に残ります。
では、三国志の時代には、お祭りなどあったのでしょうか?
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漢の時代には、年間八日の祭りが存在した
さて、三国志の時代に近い、漢の時代には、どんな祭りがあったのでしょうか?
まず、漢の時代の祭りは祝日なので仕事も休みでした。祝日は、お正月を除いて、上元(じょうげん)、上巳(じょうし)伏日(ふくじつ)蝋日(ろうじつ)、春秋の社(やしろ)、夏至(げし)、冬至(とうじ)の合計8日間です。
この8日間は、国が定めた祭日で、商人も農民も漁民も過酷な労働を忘れ、牛を殺して肉を分けて食べ、酒を造って、たらふく食べて飲んで、ストレスを発散させたそうです。
それぞれの祭日を紹介
では、漢の時代の8日の祭りについて紹介します。
上元・・・正月十五日に行う祭りで、当時は夜中に出歩く事が執金吾(都の警備長官)により禁止されていましたが、この日だけは皇帝の特別の赦しで、夜を徹して遊ぶという事が許されていました。
上巳・・・三月に行い、近くの河に行って川の水に足を入れて禊をします。禊は形だけで、近くに敷物を広げてご馳走を並べて飲み食いしました。
伏日・・・夏にある祭りで、牛を潰して肉を切り分け、酒を造って飲み食いしました。役所も早く閉めてしまう習わしだったようです。
蝋日・・・冬に行いますが、伏日と同じような内容です。
夏至・・・官公庁もすべてお休みで、家に帰りご馳走を造って飲み食いし近所の人と団欒したという事です。
冬至・・・夏至と大体同じような事をしたようです。
春秋の杜祭・・農作業の始めと終わりの収穫の時に行った祭り、
日本の夏祭りに酷似した春秋の杜
この8日間の祭りの中で、周の時代から続き、また、日本の夏祭りにとても近いのが春秋の社の祭りです。
この時代の人々は、大体、25戸位の里(り)が一つになり、集落に社を造るのが習わしになっていました。社は土を盛りあげて基礎を築き、正面には門を構えて、敷地内には、沢山の樹木を植えたと言われます。本来、土地の神様を祭るもので、日本の鎮守の森と同じ発想です。
旧暦の二月と十月に祭りを行い、十月には収穫祭で、太った牡牛を生贄にして、来年の豊作を祈ったそうです。日本では鎮守の森ばかりでなく、夏祭り会場は、神社やお寺になったりしますが、いずれも緑が多く、樹が生い茂るのは共通した特徴ですね。
陳平が肉を公平に切り裁いたのは、この春秋の杜だった。
史記には、兄夫婦の居候だった陳平(ちんぺい)が、里中の社祭で生贄の肉を公平に分けて村の長老達の評判を得たとありますが、陳平が肉を切り分けたのもこの春秋の杜祭でした。
ここで切り分けた肉は村の人々に分配され、酒も振る舞われて、社の周辺は里中の人々でにぎわいました。そればかりではなく、神が宿る杜は揉め事が発生した時に、嘘偽りを言わないという誓いの場所にもなっていました。
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孔子の弟子が鳥を取ろうとして叱られた神聖な社
社は神聖な場所で、普段から人が故なく入らないように管理されました。孔子の弟子の子路(しろ)と子貢(しこう)が社の前を通り、樹上の鳥を子路が獲ったので管理をしていた番人が怒り、子貢が、慌てて取り成したという逸話もあります。
また、後漢の学者の蔡邕(さいゆう)は、新しい社が出来た時に、頼まれて、碑を書いたりしている事から、後漢の頃でも、社は大事にされていた事が分ります。
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三国志ライターkawausoの独り言
このような春秋の社の祭りは、南宋時代までは続きましたが、モンゴルの元が中国を支配すると、禁止されるようになり、その後、途絶えてしまったそうです。
その理由は、社には大勢人が集まり、笛や太鼓をドンドン鳴らすのでモンゴル人官僚には、それがモンゴルに反逆する為の戦の準備に見えたからだとも言われています。
このような様子を聞くと、ますます日本の夏祭りに近いですが、習慣が滅んでしまった今となっては確認も出来ませんね。本日も三国志の話題をご馳走様・・
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