三国志と言えば、孔明(こうめい)や郭嘉(かくか)、程昱(ていいく)、周瑜(しゅうゆ)のような権謀術数を駆使する軍師で有名ですが、それを遡る事、400年の昔の楚漢の戦いの時には味方にさえ本心を疑われる程の病的とも言える謀略の天才がいました。
曹操(そうそう)が救賢令で名を出してまで絶賛した謀略の達人、陳平(ちんぺい)を紹介します。
この記事の目次
勉強ばかりで仕事をしなかった陳平
陳平(?~BC178)は、陽武戸牖郷(ようぶこゆうきょう)に生まれます。生家は、決して裕福ではありませんが、陳平は背が高く容姿が美しかったようです。陳平は勉強ばかりで家業である百姓仕事をしませんでしたが、兄の陳伯(ちんはく)は、そんな陳平を見込んで、めったに家業を手伝わせなかったようです。
そんな特別扱いに腹を立てた陳伯の妻が陳伯に文句を言うと「俺の弟をなじるような女は出て行け!」と妻と離婚しました。
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成人した陳平、未亡人に目をつけ計略を用いる
陳平は成人しますが、貧しい事に違いはありません。そこで、陳平は手っとり早く金を得る為に、近くの未亡人をターゲットにします。その未亡人は張氏という金持ちの娘でしたが何故か男運がなく、彼女と結婚した男は、五回連続で早死にしていました。
陳平は、そんな張氏に近づき冠婚葬祭を積極的に手伝っていきます。さらに、陳平は、家は貧しいのに名士と付き合いがあるように見せる為に家の門の前をわざわざ馬車を走らせて轍をつけて、いかにも名士と交流があるかのように見せ掛けました。これにすっかり騙された張氏は、陳平に娘を娶らせたのです。
陳平、祭祀の肉を均等公平に分配して脚光を浴びる
こうして、資金を手に入れた陳平は、これを元手に地元の名士と、積極的に付き合い、広く人脈を築きました。また、ある祭事では、かならず揉めてしまう生贄の肉の分配を、陳平が公平かつ均等、迅速に行い、街中の注目を浴びます。しかし、陳平の野望は街の注目程度では満足しませんでした。「俺に天下を任せてくれれば、この肉のように素早く裁いてみせるのに」とため息を漏らしたそうです。
始皇帝死す、陳平、魏王になった魏咎(ぎきゅう)に仕えるが・・
紀元前210年、始皇帝(しこうてい)が死去、翌年には農民出身の陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)が反乱を起します。これに呼応した魏咎が魏王を名乗ると、陳平は「野望を叶える好機」と街の若者を連れて魏軍に合流します。ところが魏咎は、大した人物ではなく、陳平の献策を全て無視します。ばかりか、陳平は魏咎の家来達に讒言されたので、殺されるのを恐れて逃亡しました。
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陳平、今度は項羽(こうう)に仕えるが・・
陳平は、次には、反秦連合軍をまとめている項羽の陣営に入ります。ここで陳平は項羽に謀反を起した殷(いん)王 司馬卭(しば・ごう)を降伏させ、都尉に任命されますが、ほどなく司馬卭は今度は劉邦に降伏してしまいました。項羽「殷王の風見鶏め!劉邦に降りおって、大体、先にヤツを降伏させた連中は何を見ておったのだ!」
項羽は、こうして、司馬卭を降伏させた者達まで誅殺しようと考えます。陳平は誅殺される前に都尉の印綬と項羽から貰った金銭を全て返還して、素早く逃亡してしまいました。
陳平が裸で船を漕いだ、必殺の謀略
陳平が船で移動中、船の船頭達は、ひそひそ話を始めます。どうやら、陳平の人相からただの旅人ではないと考えて陳平を殺して、金を奪おうとしているようです。そこで陳平は、おもむろに服を脱いで褌(ふんどし)一丁になります。
陳平「何だか暑いですね!私にも、ひとつ船を漕がせて下さいよ」陳平が大した金を持たない事を知った船頭達は陳平を襲う事を止めたそうです。
陳平は、遂に劉邦(りゅうほう)に仕えるが・・
陳平は旧友の魏無知(ぎむち)の紹介で劉邦に面会します。劉邦は陳平の話を大いに気にいり、即日、陳平が項羽に仕えていた頃の地位都尉に任命し、自分の馬車の隣に陳平を乗せて厚く信頼しました。しかし、その直後、劉邦軍は、澎城で項羽の精鋭3万人に大敗します。56万もいた劉邦軍は多すぎて、動きも取れず規律も無く、20万という犠牲者を出して、チリヂリバラバラになります。
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ここぞとばかりに劉邦の重臣は、陳平を攻撃する・・
劉邦の昔からの家来達は、敗戦を陳平のせいにして、ここぞとばかりに、劉邦に陳平を讒言しました。
「陳平は、故郷にいる頃、兄嫁と姦通し、魏においては魏咎に仕えて見限り、次には項羽に仕えて見限り、今は我が軍で職権を濫用して賄賂を取っています。こんな恥知らずの変節漢を重く用いるのは止めて下さい」
敗戦で心が狭くなっている劉邦は讒言を真に受けて紹介した魏無知を呼び厳しく問いただしました。
魏無知「漢王、勘違いなされては困ります。私は陳平の才を推挙したのであって、人格を推挙したのではありません」
劉邦は、この答えに大きく納得し、さらに陳平を呼んで弁明させます。
陳平は、悪びれる事なく堂々と主張します。
陳平「私が魏咎を見限ったのは彼が献策を採用しないからであり、項羽を見限ったのは項羽が一族の意見しか聴かない為であります。また項羽は私を殺そうとしたので、私は項羽からもらった金銭を全て返却して流浪の旅に出ざるを得ませんでした。私が賄賂を取っているのは、無一文で金が無くては、地位に相応しい体裁が維持できない為であり金銭を貪っての事ではありませんもし、漢王が、私を採用なさらないなら、私は地位も金銭も返還し、再び、流浪の旅に出るだけで御座います」
この堂々たる主張を聞いた劉邦は、疑った自分を恥じて、陳平を新たに護軍中尉に任命しました。
陳平の謀略炸裂!!范増、鐘離昧、龍且、周殷を項羽から離反させる
澎城で大敗した劉邦は、敗走を続け、滎陽城に立て籠ります。項羽は、早くも劉邦から寝返った諸候の軍勢で滎陽城を包囲して、漢軍の食糧と水を断ちました、劉邦は絶対絶命のピンチに立たされます。ここで起死回生の奇計を持ってきたのが陳平でした。項羽が疑り深い性格である事を利用し大金を元に項羽の重臣達を離反させ裸の王様にしてしまおうと言うのです。
劉邦は即座に、この計略を採用して、4万金という大金を与えます。陳平は、このお金で項羽の軍師、范増(はんぞう)を始め、鐘離昧(しょうりまい)、龍且(りゅうしょ)、周殷(しゅういん)という重臣を離反させる事に成功しました。特に項梁亡き後、楚軍のブレーンとして活躍していた老軍師、范増を失脚させた事は劉邦の天下取りを大きく進ませました。
陳平大手柄!劉邦を城から脱出させる
重臣が離反した項羽ですが、何がなんでも、劉邦を餓死させようと、滎陽城の包囲を解こうとせず、とうとう、城の食糧は尽きます。
そこで、陳平は劉邦の替え玉として容貌が劉邦に良く似た紀信(きしん)という将軍を使い、周苛(しゅうか)と樅公(しょうこう)を残し、漢王に偽装させた紀信を城から打って出させてその隙に劉邦を逃がす奇計を提案します。
奇計は見事に成功、項羽は劉邦が餓死寸前でヤケクソになり打って出たと信じて、まさか、替え玉とは思いませんでした。事実を知った項羽は悔しがり激怒し、劉邦の替え玉を演じた紀信と城に残った周苛、樅公を皆殺しにしました。
韓信のワガママに怒る劉邦を諌める陳平
劉邦が包囲を逃れて、命からがら関中に逃げ戻った頃、斉を平定した韓信(かんしん)から手紙が届きました。
「ようやく斉を陥落させましたが、まだ人心が不安定です。つきましては、私が仮に斉王を名乗る事をお許し頂けると権威に箔がつき、斉の民も懐くと存じます。一つ、お許し願えますと、漢王様って何ていい人、なんちて、なんちて、ウヒョ♪」
これに劉邦は激怒して木簡を床に叩きつけてしまいます。
「ムキーッ!!韓信の馬鹿ヤローが!!こっちは命からがら関中まで逃げのびたばっかりだっちゅーのに、、何が何ていい人、ウヒョだ!!」
しかし、怒りまくり、願いを却下しようとする劉邦を、陳平と張良(ちょうりょう)が必死に止めます。
「韓信は斉を降して、今や、漢、楚に並ぶ第三国です。ここで、願いを拒絶すれば項羽についてしまう恐れもあります。そうなっては悔やんでも悔やみきれませんぞ」
説得された劉邦は考え直し韓信に斉王を名乗る事を許します。これにより、独立志向のあった韓信は安心し、漢軍に留まる事になりました。
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匈奴の大軍に包囲された劉邦を陳平が再び救う
紀元前202年、劉邦は項羽を破り、漢王朝を建国させます。そして、紀元前200年、休む間もなく、当時、漢の国境を侵犯していた匈奴と、自ら戦う事を決意しますが、匈奴の名王、冒頓単于(ぼくとつぜんう)の計略に掛かり大敗、再び匈奴の大軍に包囲される羽目になります。また、餓死の恐怖に追い込まれた劉邦ですが、陳平がツテを頼って、冒頓単于の閼氏(あっし:皇后)に使者を面会させます。
「漢が降伏すると漢の美女は冒頓単于様のモノになります。そうなると単于様は、毎晩、ウヒョ♪になってしまい、閼氏様は、困った事になるのではないでしょうか?」
閼氏は、このまま劉邦を漢に返した方が得だと考え、単于に講和を働き掛け、結果、劉邦は莫大な身代金と引き換えに解放されました。
楚漢戦争ライターkawausoの独り言
陳平の活躍はこれだけに留まらず、劉邦の死後、呂后が漢の天下を奪おうとするとわざとボケたフリをして警戒心を解き、呂后が死ぬや否や、呂氏一族を誅殺して漢の天下を回復させました。ただ、余りにも謀略が多く、その多くが的中し沢山の人間を陥れたので、陳平は、味方にさえ警戒され、また当人も
「自分の悪業の報いで子孫は死に絶えるだろう」と予言していたようです。
曹操も、求賢令という布令を出した時に、「陳平のように兄嫁と姦通し賄賂を取るような人でも才能があればノ―問題、俺様が厚く用いるぜ、ウヒョ♪」と書いて脛に傷があっても才能があれば重く用いると宣言しています。