楊貴妃(ようきひ)、クレオパトラ、小野小町と世界三大美女にもあげられる小野小町。
しかし、世界中の人が小野小町を知っているわけもなく、メジャーなのは、
楊貴妃、クレオパトラ、ヘレネ(ギリシャ神話)なのだそうです。
このように世界的にはローカルな小野小町は、どんな人だったのでしょう?
この記事の目次
小野小町は誰の子なのか?
小野小町(おのの・こまち)は、正確な生没年も不明で、
おおよそ西暦825年から900年頃に活躍したと考えられています。
父親については、従三位の高位に上った小野篁(たかむら:802~853)の
息子の小野良真(よしま)の娘とされますが、小野良真は「尊卑分脈」という
書物にしか登場しない人であり、実在が怪しく小町の生没年を考えると、
小野篁の娘ではないか?というような説があります。
ちなみに小野篁は、地獄の閻魔大王と親友でその裁判の補助をする為に
毎夜、あの世と通じる古井戸を通って地獄とこの世を出入りしていたという
伝説があり、小野小町に負けない不思議な人です。
小野小町に兄弟姉妹はいるの?
血縁者としては、古今和歌集に小町姉、後撰和歌集には小町孫(まご)、
それ以外の写本には小町がいとこ、小町姪(めい)という名前が出てくるようです。
しかし、実在を裏付ける史料はなく実在が疑わしいとされます。
一方で小町は名前ではなく、町は後宮に仕えていた女性を意味する言葉として
同時代に実在した三条町、三国町という女性と重ね合わせる説もあります。
姉妹で後宮に仕えたという説もあり、前述の小町姉が、小野町と呼ばれ、
小町は妹なので区別する為に小野「小」町(小さい方の小野町)としたという
考えもあるのですが、いずれも決定的な証拠はありません。
バラバラな出身地・・
小野小町の生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野と言われ、
さらに晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えがあります。
ですが、これも定説とは言えず、これ以外にも
・京都市山科区とする説。
・福井県越前市とする説。
・福島県小野町とする説。
・熊本県熊本市北区植木町小野とする説。
・神奈川県厚木市小野とする説。
などがあり結論は出ていません、しかし、祖父、或いは父の小野篁は
若い頃に、父、小野岑守(みねもり)に従い、陸奥国(東北地方)に出向き
弓馬の腕を磨いていたと言われ、小野小町がここで生まれた可能性もあります。
ですので、秋田県湯沢市小野というのもあり得なくはありません。
小野小町は、どんな歌を詠んでいるの? 胸キュン編
小野小町の言葉が残らない以上、その性格や人となりは、
和歌から判断するしかありません。
そんな小野小町の詠んだ歌がこれです。
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
翻訳:恋い慕う人の事を考えながら、眠りにつくと夢の中にまで、
その人が出てきてしまった、夢だと分っていれば目を覚まさないのに
こちらは、誰でも経験がある甘酸っぱい片思いの恋愛感情を
かなりストレートに詠んでいます。
千年以上昔の人でも、人に恋する気持ちは変わらないという事が
よく分る和歌です。
小野小町は、どんな歌を詠んでいるの? 情熱編
清純で清々しい恋の想いを詠んだかと思えば、下のような歌もあります。
「限りなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人は咎めじ」
翻訳:貴方を恋い慕う想いは限りなく、夜になったら、夢の中を歩いて、
あなたに逢いに行きましょう、まさか、夢路までも人は咎めないでしょう。
同じ夢でも、こちらは能動的で許されぬ恋でも夢の中を通って、
あなたに逢いに行きますという、両想いでないなら怖くなる和歌です。
小野小町は、どんな歌を詠んでいるの? 中島みゆき編
激しく燃え上がった恋も、どちらからともなく終わる事があります。
そのような燃え尽きた心情を詠んだ歌が下です。
「秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば」
翻訳:秋風に揺れている稲穂も、やがて刈り取られて
中身が無くなると思えば哀しいわねェ・・
男に捨てられて、何だか空っぽになった私、あんな男でも
昔は信じていたと思えば、これも哀しいわよねェ・・
♪わか~れはぁ~いつも、ついてくるぅ~
しあわせ~のうしろについてくるぅ~
それーが私のくせなのかぁ~
いつも目覚めれば、ひとーりー
思わず、中島みゆきの「わかれうた」を思い出しました。
平安を代表するイケメンと歌を交わしていた小町
当人は謎だらけですが、小町は和歌を通じて、同時代の有名な歌人、
在原業平(ありわらのなりひら)や文屋康秀(ぶんやのやすひで)、
良岑宗貞(よしみねのむねさだ)と関係がある事が返歌から分ります。
この中の、在原業平や良岑宗貞は平安時代を代表する美男子で、
かつ和歌の腕も立つインテリで、同時に複数の女性と浮名を流す
名うてのプレイボーイでした。
小野小町は美女だという伝承がありますが、その中には、
この二人のような平安のプレイボーイと歌を交わしたという事実も
含まれているのだと思います。
生涯、女に不自由しなかった在原業平が歌を交わす位だから、
大層な美女に違いないと思われたのでしょう。
小町モテエピソード・・
小野小町は容姿ばかりでなはく、当時の貴族の教養である和歌を巧みに詠み、
かつ宮廷に仕えているのでキャリアウーマンでもありました。
しかも、イケメンの在原業平と歌を交わす位なので、男は次々、
和歌で求婚するというモテモテぶりだった模様です。
なので、とても男に求める理想が高く、言い寄る男を片っ端から、
振りまくるという贅沢な事をしていたのです。
そんな男達の中でも深草(ふかくさ)少将という人はかなり本気で
小町に惚れていて熱心な手紙を幾通も送り、求婚していましたが、
それがウザくなった小町は諦めさせるつもりで・・
「私の屋敷に百日通ったら、付き合ってあげます」と手紙で返信。
これで諦めるだろうと思っていたら、
深草少将は、それから雨の日も風の日も小町の屋敷を尋ね続け、
九十九日目に病に倒れ、そのまま亡くなってしまったという事です。
これは深草少将の一途な恋心を現した美談のようですが、
個人的には、小野小町ヒデー、やな女・・という感想しか湧きません。
本当は深草少将に心が動いていた小町
ですが本当は、毎日、熱心に自分に逢いに来る深草少将に、
小町の気持ちは動いていたようです。
和歌は寄越すものの、軽薄な男ばかりでウンザリしていた小町ですが
決して、諦めず百日詣でを続ける深草少将の気持ちに心を撃たれ
少将が百日通う事が出来たら、想いを受け入れようと屋敷で待っていました。
しかし、九十九日目で少将は病に倒れ、百日目に小町に逢いに来る事なく
亡くなってしまいました。
小町も悲しんだでしょうが、事情を知らない周囲は、
男をもて遊んで、挙げ句には殺した嫌な女と小町を蔑みました。
で?ぶっちゃけ、小野小町は絶世の美女なの?
小野小町が美女だったと明確に書かれた本は無く当人が生きていた時代に
描かれた絵もないので、絶世の美女は推測でしかありません。
しかし、当人が詠んだ和歌には、自らの容姿を匂わすものがあります。
「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」
翻訳:桜の花の色は春の雨の間にどんどん色あせてしまった。
まるで私の美貌のように、愛だの恋だのに心を奪われて、
ぼーっとしている間に・・
この和歌を見ると、小町は「あたしゃ美人だ文句があるか!」とばかりに
自身を桜の花に例えて美貌が衰えたと嘆いています。
中々いい度胸です、もし、小町の容姿が中途半端なら、
「はぁ?どんだけ意識高いねん 自分?」
などと、周囲のド顰蹙を買うと思うので、周囲を納得させるレベルの美貌は
あったのではないか?と考えてよさそうです。
最後は貧しさに人生を閉じた 小野小町
言い寄る男という男を振り倒した小町ですが、和歌に詠んだように
理想の愛や恋に時間を取られ過ぎ、気がつくと結婚適齢期を過ぎ
独身のまま、年老いていったようです。
やがて宮中からも出された小町は、食べさせてもらうアテもなく
独りぼっちで物乞いをして生計を立てるようになったと言われ、
小町はアバラ骨が見える程に痩せ衰え、着るものさえ満足にない有様で、
貧しさの中で死んでしまったと言います。
「吾れ死ねば 焼くな埋むるな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせや」
これが臨終の間際に小町が詠んだ辞世の句だそうです。
死んだら、死体は痩せた犬に食わせてくれという意味ですが、
その非業の人生を物語っているように思えます。
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kawausoの独り言
小野小町の人生には、美貌と和歌の才を駆使して時代のスターになった
栄光の前半生と、独り身で老いを迎え、貧しさの中に死を迎える
悲惨な最期が同居しています。
でも、どんな人間でも多かれ、少なかれ、小町のような人生の
喜びと悲哀を味わい、人生を終えるのですから、小町の生涯は、
忘れ難い記憶として多くの人に残って行ったのでしょう。
それが今でも、小野小町が語り継がれる理由なのです。
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