韓遂(かんすい)は反乱デビューが四十を過ぎてからと遅咲きながら、
一度叛くや三十二年も抵抗を続けるという頑強さで歴史に名を残しました。
しかし、そんな韓遂も七十を過ぎて味方が乏しくなると寂しさを感じて、
一匹オオカミは辞めて人の世話になろうかな・・とつぶやいた事があります。
韓遂が頼ろうとしたのは、なんと、あの劉備(りゅうび)だったのです。
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この記事の目次
夏侯淵に攻められ、けちょんけちょんの韓遂
西暦214年、馬超(ばちょう)が二度目の反逆を企てて冀(き)城を落すと、
そこへ夏侯淵(かこうえん)が出兵、馬超は一度撃退しますが、
楊埠(ようふ)の策略により冀城でクーデターが起きると城に戻れず逃げ出し
張魯(ちょうろ)を頼って落ち延びていきます。
ここでは、もう韓遂は馬超とは切れていたのですが、そんな事は知った事ではない
夏侯淵は、ついでに韓遂も討とうと兵を進めます。
韓遂は、羌族の騎兵を率い漢陽の顕親(けんしん)から逃れて略陽(りゃくよう)城に
入って防戦の構えをします。
「一思いに、韓遂を殺ってしまいましょう」と部下は息巻きますが、
夏侯淵は慎重です。
「まあ、待て・・韓遂は戦上手だ、こちらから攻めては被害が大きい
まずは、羌族の村を焼き払い、韓遂の兵を慌てさせる事だ。
もし韓遂が救援を無視すれば、羌族は韓遂を見限って兵は減少するし、
韓遂が村を救いに出てこれば、待ち伏せて撃破すればよい」
韓遂は出たくはないのですが、部下の羌族が家族を守るというのを
無視も出来ず、渋々出陣して夏侯淵の待ち伏せに遭い大敗します。
汚い、あまりに汚い戦法ですが、韓遂の弱点を突いた形でした。
意気消沈の韓遂、劉備を頼ろうと考える
その頃、韓遂は七十を過ぎて体力も衰え、髪も白髪になり味方も減って、
すっかり弱気になっていました。
かつては、中原に覇を唱えようと考えた事もありましたが、曹操は着々と
支配を固めていて、ちょっとやそっと攻めてもビクともしそうにありません。
それに、仲違いした馬超が張魯から劉備に降って、それなりに重く使われている
情報も届いていたのでしょう、ガラにもなく、独立の精神を失い・・
「この上は、蜀を頼るより他はないか」と呟いたのです。
しかし、長年韓遂に仕えていた成公英(せいこうえい)はそれを聞いて激怒します。
「これまで、誰にも頼らずに一匹オオカミでやってきたのに、
今更、他人の世話になるとは、恥ずかしくないのですか!」
「そうは言っても、ワシはもう年寄り、どうしたらいいのかね?」
「昔の知人を集め、羌族にも呼び掛けて兵を集めましょう
まだまだ、工夫次第では抵抗できるはずです」
成公英が韓遂の名前で兵を集めると、韓遂の威徳を慕い、
それでも羌族の男女、数千名が集まり、なんとか一軍を形成できました。
こうして韓遂は蜀に降る事を思いなおし一匹オオカミを続けます。
羌族に尽くしてきた韓遂は衰えて後も羌族に庇われたのです。
西暦215年、韓遂、死去、それは病死、殺害?
韓遂の死には、3つの説があり、後漢書、董卓(とうたく)伝では部下に殺されたとあり
魏志、王脩(おうしゅう)伝の註に引く魏略の郭憲(かくけん)伝には、
殺されたのではなく病死という記述があり、武帝紀に引く典略には、乱を起こして三十二年、
ここに至ってとうとう死んだ、齢は七十余とされ、病死か殺害か分かりません。
三者のどちらが正しいか分かりませんが、印象深い話である郭憲伝を
詳しく紹介してみましょう。
郭憲は自分を頼った韓遂を最期まで庇った
郭憲(かくけん)は、西平の人で、名門の生まれでしたが郡に呼ばれても出仕せず
故郷の西平で一郡の人に慕われて過ごしていました。
そこへ、羌中からフラッと韓遂が尋ねてきて「匿って欲しい」と告げます。
さあ、ド田舎の西平は沸き立ちます、韓遂は曹操が首を狙う大物、
韓遂を討ち、その首を曹操へもっていけば出世間違いなし!
皆、韓遂を討とうと持ちかけますが、郭憲はビシッと一喝します。
「私に保護を求めてきた人間を殺すとはどういう料簡か!」
こうして郭憲は、返って韓遂を手厚く世話しました。
それから数年で韓遂は死に、首は麴演(きくえん)や蒋石(しょうせき)
田楽(でんがく)や陽逵(ようき)により胴から切り落とされました。
生きている間は、面倒を見たのだから死んだら郡の役に立てという理屈でしょう。
しかし、なおも納得しない郭憲は、韓遂の首を取った手柄に自分の名を
付け加える事を拒否しました。
曹操は節義に厚い郭憲にも褒美を出した
西平から上ってきた褒美を求める一団は、張魯を攻めていた曹操に面会しました。
曹操は、首が韓遂のモノである事を認め、手厚い恩賞を与えますが、
手柄に名を連ねた者の中に郭憲の名が無いのを不審に思いました。
「郭憲はどうしたのか?どうして名前が無い?」
「それが、匿った男の首を斬った手柄に自分の名を乗せるのは、
嫌だと断ったのでございます」
それを知った曹操は、郭憲の節義に感心し、首を持ってきた人間と
同じだけの褒美を与えました。
三国志ライターkawausoの独り言
しかし、もし、韓遂が蜀に降っていたらどうなったでしょう?
すでに劉備に降っていた馬超と再会して、再びコンビを組んで、
さらに曹操に一矢報いたか、むしろ、不協和音を産みだして
トラブルの元になったか、今一つ、よく分りませんね。
ただ、死因が病死なら、降って間も無く死んだ事になり、
あまり蜀の命運に影響を与えなかったのかも知れません。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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