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馬超(ばちょう)蜀に入った時にはピークを過ぎていた?

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馬超

馬超孟起(ばちょう・もうき 176~222年)は、

言わずと知れた蜀の五虎将軍です。

 

しかし、名前ばかりは、錦(にしき)の馬超と華々しい彼は、

劉備(りゅうび)に降伏してからは、その名に見合う活躍をしていません。

それは一体、どうしてなのでしょうか?

 

 

馬超が劉備軍に加わってから活躍出来なかった原因

馬超仲間入り

その原因は、馬超が劉備軍に入った期間の短さにあります。

馬超が劉備に降伏したのは、西暦214年、そして彼が没したのは

222年、47歳という若さでした。

 

その在籍期間は僅かに8年間、、しかも、最初の3年間は、

比較的大きな戦もなかったので、実働したのは、

西暦217年からの5年間、参加は漢中攻略戦だけです。

 

しかし、ここでは、曹洪(そうこう)、曹休(そうきゅう)に軍を阻まれて、

為すすべなく撤退してしまっています。

 

漢中争奪戦は、法正の助言で劉備の大勝利に終わったので、

余計に馬超には手柄がないのが、空しく見えるのです。

 

馬超が活躍したのはいつ?

東方 三国志

 

しかし、劉備軍に入る前の馬超は、錦の馬超という美名に相応しい

大きな活躍をしています。

実は、馬超の旬は、劉備軍に入る前に終わっていたと言ってもいい位です。

 

馬超は、西部軍閥の雄、馬騰(ばとう)の長男として生まれ、

若い頃から、武勇とその優れた容貌で人目を惹きました。

錦(にしき)の馬超とは、この頃につけられたあだ名です。

 

 

馬超の目立った戦果

東方 光

 

馬超が目立った戦果をあげるのは、西暦202年です。

その頃、北方の雄、袁紹(えんしょう)が死去、

袁家は袁尚(えんしょう)に引き継がれました。

 

敗れたとはいえ、まだ勢力を保つ袁尚は、郭援(かくえん)、高幹(こうかん)

に命じて、曹操の本拠地を攻撃させます。

 

高幹は、当初、馬騰に通じて、これを寝返らせたので、

高幹の軍は数万人に膨れ上がり、曹操は窮地に陥りますが、

曹操軍の文官である鐘繇(しょうよう)が、部下の張既(ちょうき)を

馬騰に派遣して説得させると馬騰は、さらに寝返り再び曹操につきます。

 

この為に、高幹、郭援は、平原で馬騰軍の武将であった、

龐徳(ほうとく)、そして馬超と対戦する事になりました。

 

26歳の馬超は、ここで奮戦しますが、足を負傷してしまいます、

しかし、負傷した足を袋で包んで尚も奮戦して、敵将郭援を斬る

という大戦果を上げました。

 

これにより馬超は、勅命で徐州刺史になり、後に諫議大夫になります。

 

精強な西涼騎兵の実権を握った馬超

三国志 ヒカリ

 

西暦208年、父である馬騰は、かつて義兄弟だった韓遂(かんすい)と

再び不仲になり、曹操の命令で、鄴に移ります。

 

空白になった、涼州兵の指揮官には、長男の馬超が任命されます。

ここで、馬超は精強な西涼騎兵を握ったのです。

 

 

曹操が張魯(ちょうろ)を征伐する事になり馬超の運命も変わる

曹操50万の兵

 

しかし、西暦211年、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を

征伐する事になると、状態が怪しくなってきます。

 

劉繇は、「涼州の軍閥は、気まぐれだから、いつ張魯に味方するか

わからない、馬超からも人質を取るべきです」と進言。

 

「とんでもない、そんな事をすれば、彼等は背きます」

そのように進言した家臣もいましたが、曹操は鐘繇を信頼し

許可を出しました。

 

こうして馬超の下にも、人質を差し出せという命令が回ってきたのです。

 

これを馬超は、張魯の征伐後は、さらに涼州の軍閥である自分も

滅ぼす布石であると思いました。

 

そこで、馬超は、ちょうど遠征から戻ってきた韓遂を訪ねて、

共に組んで、殺される前に曹操を討とうと相談してきたのです。

 

 

韓遂は馬超と手を組みたがらない、その理由とは

夜 s

 

しかし、韓遂は、曹操に人質に出している子供が殺される事を恐れて、

なかなか首を縦に振ろうとしません。

 

馬超:「あい分かった、ならば、韓遂殿はそれがしを息子と思われよ、

それがしは、父、馬騰を捨てて、あなたを父と思いましょう」

 

馬超は、こうまで言って、韓遂を説得、二人は挙兵して、

10万という大軍を集めて、黄河の南岸に布陣し潼関を攻めます。

 

 

曹操と馬超 遂に激突

炎 s

 

曹操は、潼関を曹仁(そうじん)に守備させつつ、
徐晃(じょこう)、朱霊(しゅれい)を使って、

黄河の北岸に布陣して、なんとか潼関を迂回して、馬超と韓遂の

連合軍の背後に回り込もうとします。

 

しかし、馬超は、得意の騎兵の機動力を駆使して、遊撃戦を展開、

曹操軍に黄河を渡海させずに、撃ち破ります。

 

曹操は、軍の被害を抑える為に、周囲を壁で覆った俑道(ようどう)という

軍事通路を使い移動しますが、馬超軍の攻撃は苛烈で、

遂には、曹操が、たった一騎で、馬超から逃げ回るという事態になります。

 

優勢に立ったと思われた馬超・韓遂連合軍ですが、

ここで、曹操の軍師、賈詡(かく)の離間の計が発動、、

 

 

賈詡の離間の計により馬超と韓遂は不仲に

三国志 月

 

馬超と、韓遂は、この計略に掛かり不仲になり馬超は、

韓遂を斬ろうとする事態にまで発展、、

 

曹操軍は、ここで動き、馬超・韓遂連合軍は一挙に崩壊します。

 

馬超は逃げのび、漢陽に立て籠りますが、曹操は報復として、

馬騰をはじめ、馬氏の一族200名を斬り殺しました。

 

 

馬超は羌族を味方につけて曹操に襲いかかる

断金の交わり

 

西暦212年、一度は敗北した馬超ですが、曹操が軍を引き上げたのを

見て、勝機と見たのか、今度は羌族(きょうぞく)を味方に隴上で蜂起します。

 

馬超は、冀城に籠った、涼州刺史の韋康(いこう)を殺して、城を奪い、

征西将軍、、幷州牧、涼州の軍事総督を自称しました。

 

一度は敗北した馬超ですが、北方では人望があり、またたくまに、

各地が呼応して大勢力になります。

 

 

馬超の苦難が続く

劉邦 竹 冠

 

曹操は、夏候淵を派遣しますが、馬超はこれ撃破、

さらに、、氐(てい)族の千万(せんまん)、阿貴(あき)を味方に引き入れていきます。

 

しかし、韋康の復讐に燃える、涼州の楊阜(ようふ)達の反撃が起こり、

冀城を奪われると、折角、仲間に入った羌族、氐族が馬超を見限り

勢力は急速に衰えて、馬超は、漢中の張魯を頼り落ちていきます。

 

この時、冀城にいた馬超の妻と多くの一族が、報復として殺害されます。

 

こうして、馬超の下には、従兄弟の馬岱達、僅かな一族しか残りませんでした。

自分が播いた種とはいえ、あまりに寂しい結末です。

 

その後の馬超は、張魯の援助で、何度か失地回復を図りますが、

その結果は、芳しくないものでした。

 

このように、劉備軍の前に現れた馬超は、三国志演義での

華々しさとは裏腹にすでに全てを失い、ボロボロの状態だったのです。

 

トドメを刺すようで、あれですが、、正史の馬超は、

劉備が成都を攻撃していると知ると、愛想を尽かしていた、

張魯を見限り、劉備に降伏しています。

 

 

・・・つまり、張飛との一騎打ちは演義のフィクションなのです(泣)。

 

 

 

馬超が蜀軍から評価されていた理由

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こうして、蜀軍に入った馬超ですが、錦の馬超という派手なあだ名だと

さぞかし張飛のように、周りに迷惑かけまくりの感じですが、

以外にも律儀で、腰が低い人であり、あの身分が高い人間には、

態度が厳しくなるプライドの高い関羽でさえ、馬超を重んじています。

 

人物には厳しい孔明も馬超を褒めていて、大手柄がないわりに褒められる

という事は、かなり立派な人物だったのかも知れません。

 

 

馬超の最期と遺言

三国志 裏事情 闇

 

西暦221年には、大将軍と同じ格である驃騎(ひょうき)将軍に

任命されますが、翌年には、病を得て病死、、年上である劉備より先の死でした。

 

「臣の一族、二百名余りは、孟徳めにあらかた誅殺されました、、

残るのは、従兄弟の馬岱(ばたい)くらいのものです、、

願わくば、馬岱に馬氏宗門の祭祀を継がせて頂きたい、、

後の事は、深く陛下にお頼み申します、、これより他に言う事はありません、、」

 

馬超は、病の床でこのように劉備に最後の願いを述べ、息を引き取ります。

 

錦の馬超の最期は、秋風のように寂しくも穏やかなものでした。

 

 

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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。

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