三国志は将軍や軍師達が活躍していた時代ですが、
兵士達もしっかりと活躍しているのはご存知であると思います。
今回は合肥(がっぴ)新城攻防戦の時に包囲を破って救援軍に合肥の情報を伝えようとして
呉軍に捕まってしまった兵士についてご紹介したいと思います。
この兵士は呉軍に捕まってしまいますが、将軍並の勇気を持っている偉大な兵士でした。
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合肥新城攻防戦
諸葛恪(しょかつかく)は前年東興(とうこう)で、
魏軍を大いに打ち砕いて大勝利を収めたことに気を良くし、
呉の宿願である合肥(がっぴ)新城へ大軍を率いて攻撃を行います。
この時魏軍は兵数がすくない状態でしたが、
合肥の守将である毌丘倹(かんきゅうけん)や文欽(ぶんきん)、
張特(ちょうとく)らが奮戦したことによりなんとか持ちこたえることに成功します。
この戦いで合肥新城にこもっていた兵数の半分以上が死傷する厳しい戦でした。
勇気ある兵士その1
合肥新城の戦いは100日あまり続いた戦いでした。
この戦いで活躍したのは毌丘倹や文欽、張特らの活躍もありましたが、
合肥新城に篭城していたある兵士の活躍も見逃すことはできません。
合肥新城に篭城していた劉整(りゅうせい)と言う兵士は毌丘倹から
「救援軍に合肥新城の今の状態を教えてきてくれ」と命令を受けます。
劉整は幾重にも呉軍に包囲されている合肥新城をなんとか抜け出し、
救援軍に大将である司馬孚(しばふ)の元へたどり着くことに成功。
彼は合肥新城の様子をしっかりと司馬孚に伝えるとすぐに合肥新城へ向かいます。
しかし合肥新城を包囲していた呉軍に捕まってしまい尋問を受けてしまいます。
彼は呉軍の厳しい尋問に耐え抜き「俺は魏の国の兵士だ。
絶対に情報は喋らない。俺は死して魏国の鬼となってキサマらを追い払ってやる」と言い放ちます。
その結果、彼は殺害されてしまいます。
しかし兵士の中にもこのように勇気を持っていた人がいた事に驚きませんか。
勇気ある兵士その2
毌丘倹は劉整の他にも救援軍に合肥新城の状態を伝えるための使者を送っておりました。
その使者の名前を鄭(てい)と言います。
彼は司馬孚率いる救援軍の軍勢の元へたどり着くと合肥新城の状態を劉整と同じように報告し、
合肥新城への帰路を急ぎます。
しかし諸葛恪は合肥新城から抜け出した兵士の事を知っており、
合肥新城ヘ向かう場所に伏兵を設置して待ち構えておりました。
鄭はこの伏兵に捕まってしまい両手を縛られ合肥新城の前に連れてこられると呉軍の将校から
「救援軍は洛陽へ帰還したと言え」と言われます。
鄭はこの言葉に頷くと大声で「救援軍はもう目の前に近づいている。
呉軍なんかに負けずに頑張れ」と叫びます。
この声を聞いた魏軍の兵士は雄叫びを上げて士気は一気にあがります。
呉軍の将校はすぐに口を閉じさせて彼を殺害。
だが鄭の命懸けの叫びによって魏軍の士気は大いに上がり、
合肥新城を陥落させることができないまま魏軍の援軍到来を迎えてしまい、
呉軍は撤退することになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
司馬師はこの話を聞くと彼ら兵士に恩賞として侯の位を追贈すると共に、
彼らの一族に「今後兵士として赴く必要はない。兵士の募兵名簿から彼らの名前を削れ」と
命令を下します。
実はこの話は日本にも似たような事がありました。
徳川軍が武田軍に城を包囲されたとき城外にこの状態を知らせるために城から脱出して、
徳川家康に城の状態を報告。
そしてこの兵はすぐに味方が待っている城へ帰還しようと試みるのですが、
途中で武田軍に捕まってしまい包囲中の城の前に引き出され、
「城内へ援軍は来ないと言え」と言われます。
しかし捕虜になった徳川の兵士は城へ向かって大声で
「援軍はもうすぐ来る!もうちょっとの辛抱だ」と叫びます。
すると合肥新城のように徳川の兵士は大いに士気が上がりますが、
捕虜になった兵は処断されてしまいます。
このはなしはほとんど一緒ですが、
三国志の話がパクられたわけではなく実際に起こったことでした。
兵士の面から見ると三国志の時代は国家に忠義を尽くしていたのは武将だけでなく、
兵士達にもあったことが伺えるエピソードですね。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書1 今鷹真・井波律子著など
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