幕末時代、井伊直弼の行った安政の大獄で
残材となった越前藩の天才、英傑と呼ばれた橋本左内。
亡くなったのは26歳のときでした。
橋本左内は15歳のときに「啓発録」という決意書のようなものを書いています。
15歳といえば、現代では丁度高校受験生。
中学校を卒業する年齢でもありますね。
そして卒業といえば卒業式の定番ソングとなったアンジェラ・アキの
「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」が有名ですよね。
実は、橋本左内の「啓発録」はまさに幕末の「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」
ともいうべきものでした。
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この記事の目次
橋本左内が15歳で書いた啓発録どんな事が書いてある?
橋本左内が15歳のときに書いた「啓発録」は「自分はこう生きるのだ」と
言う志を書いたものです。
世の中には「中二病」というものがあり、このあたりの年代では自意識が過剰になって
「黒歴史」になりかねない何かを書いてしまうこともあります。
橋本左内の「啓発録」も幾分その気が有るのか無いのか。
まずは、「啓発録」に記された内容を見ていきましょう。
その言葉は福井県福井市の左内公園内に設置されたモニュメントに刻まれ、
福井市内の小中学校の読本になっています。
一.稚心を去る
一.氣を振う
一.志を立てる
一.学に務める
一.交友を選ぶ
この五つが自分自身のために大切な事であるとしました。
15歳の年齢でこの志を立て、それぞれ詳細も書いています。
橋本左内は「啓発録」でこのような人間にならねばならぬと決意したわけです。
表題だけ見るとさほどのことはありませんが、
例えば「稚心を去る」では15歳の少年が「源平の時代」に思いを馳せ
「15歳で武士となり戦うことのできぬ奴は腰抜けではないか?」
というような読み方次第では「気負い過ぎ」と感じるものもあります。
「天下の大豪傑」という言葉もでてきます。
自分に対する要求水準が高すぎではないでしょうか。
衝撃!本当の啓発録はかなりゴーマンかましていた?
橋本左内は「啓発録」の詳細は当時の武士に対しかなり辛辣なことも書かれています。
まさに「ゴーマンかましてよかですか?」レベルの尖った内容です。
「氣を振う」と言う志の詳細では、当時の武士に対しボロクソな批判を浴びせます。
侍は「士気」をもっているから、他の者が尊敬し、
敬意を払うのであり二本差しで武装しているからではないと断じます。
そして、橋本左内は当時の侍を女遊びはするわ、銭勘定ばかりで、
しかも権力者にすり寄って、己の「士気」を磨くことをしないというのです。
15歳の橋本左内はこのような腐った侍ではない本物の侍を目指すという志を
「啓発録」で記したのです。
啓発録意外!啓発録はアンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ~」だった
橋本左内は15歳で「啓発録」を記し5つの志を立てました。
そして偶然にも24歳の橋本左内がそれを発見します。
橋本左内が24歳で「啓発録」を読んだときの感想も今に残っています。
橋本左内は15歳で書いた「啓発録」の内容をやはり「浅薄」と断じます。
※浅薄:考えが浅く深く考えていない
しかし24歳の橋本佐内は15歳の橋本左内の言葉を受けとり、
今の自分よりも反抗性、気概は上ではないかと思うと書き記しました。
そして「啓発録」を友人、弟子に見せ当時の自分の気持ちがこうであったと示すのです。
さらに、24歳の橋本左内は10年前の15歳の橋本左内に語りかけるかのような文を残しています。
まさにアンジェラ・アキの「手紙~拝啓十五の君へ~」にような状況ですね。
啓発録で自分で自分を啓発した橋本左内
「啓発録」はかなり強烈な言葉で書かれた「自己啓発書」です。
言葉が強烈で、他者に対する批判も強く、自分の目指す高みは異常なまで高いのです。
天下の大豪傑を目指すつもりであるようにしか読み取れません。
しかし、それは15歳の橋本左内の弱さや迷いが生み出したものです。
15歳のときから、彼が傑物で何の迷いも弱さもなくそれ故に
「啓発録」という志を立てたわけではありません。
むしろ、逆なのです。
当時15歳の橋本左内は自分の弱さに悩み苦しみ、そのあがきの中で「啓発録」を書き、
志を刻み込むことで、己自身を啓発しようとしたのです。
彼は「啓発録」を書く以前の自分のダメさ加減を後に周囲に語っています。
己のダメさに何度も枕を濡らしたと語っているのです。
15歳の橋本左内は、情けないダメな自分を啓発するために、
尖った強烈な志を打ち立てる「啓発録」を書いたのでしょう。
啓発録の最期に書かれた左内の言葉にグッと来る
24歳の橋本左内は15歳のときの自分の書いた「啓発録」を読み、
最後に印象的な言葉を書き記しています。
今から10年後に、15歳の橋本左内の書いた「啓発録」対し赤面せぬ人物になれば幸いであると――
彼はそう書いたのです。24歳の橋本左内から見ての10年後です。
しかし、その10年後は永遠にやってくることはありませんでした。
雄藩連合を目指し、幕政に深く関わりすぎた橋本左内は、
大老となった井伊直弼に目を付けられます。
井伊直弼と橋本左内は次期将軍の擁立問題で意見が対立していました。
そして、井伊直弼は幕府の権威を回復させるため、
幕政や将軍後継問題に口を出した者たちの処罰を始めます。
それが安政の大獄です。
その弾圧の対象は大名にまで及びます。
橋本佐内を側近として重用した福井藩主の松平春嶽にまで弾圧は及ぶのです。
そして、24歳の橋本佐内の10年後はやってくることはなかったのです。
橋本佐内は安政の大獄により斬首となります。
彼が15歳で書いた「啓発録」を見つけ読んだ2年後――
26歳ときでした。
今でも立志式で学ばれる啓発録の精神
福井県内は中学校で「立志式」と呼ばれる式典が実施されます。
侍の元服にちなみ数え年の15歳で福井県内の中学生は「立志式」を体験します。
このときに、福井県内の中学生は橋本左内の「啓発録」を学ぶのです。
「啓発録」の読本も作られています。
橋本左内が15歳で記した「啓発録」の5つの志は、福井県の中学生の中に引きつがれています。
また、福井県福井市の左内公園内には「啓発録」の5か条が刻まれた石碑が建っています。
幕末の英傑のひとりであり、志半ばで刑死した橋本左内――
しかし、その15歳のときの思いはまだ現代に引き継がれています。
幕末ライター夜食の独り言
橋本左内は15歳のときに書いた「啓発録」の言葉を26歳のとき読み、
それに恥じない人物になっているかと10年後の自分に思いを馳せます。
その点だけで、やはり橋本左内が凄い人物ではないかと思います。
実際、中学校の文集ですら、大人になってから読むのは精神的にキツイ「黒歴史」と
なっている人が多いのではないかと思います。
それは、15歳のときに持っていた熱い思いに対し、
今の自分が後ろめたいというところもあるかもしれませんし、
橋本左内と同じく15歳の自分の「浅薄さ」を感じるのかもしれません。
ただ、15歳のときに感じた思いは、誰であれその時感じたリアルであって、
時を経てその思いが変質してしまったとしても、
一度真正面から向き合ってみる価値があるのかもしれません。
それは、逆に今の自分をはっきりと浮き上がらせることになるかもしれないのです。
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