橋本左内を生み出した橋本氏の血統を遡ると清和源氏の大族である
河内源氏の血筋に繋がっていきます。
橋本氏は、河内源氏直系の足利氏一門の桜井氏の分家(庶流)として成立し、
越前国に土着し、越前松平家の家臣となります。
幕末に橋本左内を産み、その子孫にもバラエティ豊かな人材を生み出してしている一族となっています。
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この記事の目次
祖先は河内源氏の嫡流足利氏の庶流桃井氏
幕末に雄藩連合による改革を目指し安政の大獄に斃れた
幕末の英傑のひとりに数えられる橋本左内の血筋はどうなっているでしょうか。
橋本左内の血筋、家系を辿っていくと、
清和源氏の血を引く大きな一族であった河内源氏に祖を求めることができます。
その河内源氏直系の一族で、足利氏の一族である桜井氏から分家してできたのが橋本氏です。
桜井氏の8代目にあたる桃井義胤のひ孫である直安から橋本左内の生まれた橋本家に繋がります。
先祖は戦国期に越前に土着、松平氏に仕え医師となる
橋本左内は福井藩士でした。
幕末期の藩主は松平春嶽です。
松平春嶽は、田安徳川家から養子として越前松平家に入りました。
福井藩を統治した越前松平家は、徳川家の分家で御家門と呼ばれる名家の一族です。
福井藩の松平春嶽は幕末期に雄藩連合による幕政改革の方向で積極的に動きます。
左内も福井藩主である松平春嶽の側近に抜擢されます。
そして、大きく幕政に食い込んでいくのです。
この橋本左内を生み出した橋本家は、戦国に越前に土着し、越前松平氏の家臣となりました。
橋本家は代々医学をもって、越前松平氏に仕えていました。
橋本左内も医学を納めており、彼は元々医師であったといえます。
幕末の医師出身者で有名な人物には、幕末の官軍を指揮した軍事の天才・大村益次郎もいます。
憂国の念に燃える橋本左内は医業を捨て国事に倒れる
橋本左内は医師として当時、日本医学の総本山ともいえる緒方洪庵の適塾に学びました。
適塾は緒方洪庵が江戸時代後期に大坂に開いた医学の塾ですが、
幕末時代、明治維新期の時代の中で、多くの有用な人材を生み出しています。
大村益次郎、福澤諭吉も塾頭を務めています。
適塾は今の学校とは異なり、教える者も教わる塾生もともに、
議論し学びあうという形をとっており、その中で、橋本左内は医学とともに、
激動の時代についても考えるようになったのでしょう。
橋本左内は、福井藩士であり藩主である松平春嶽の側近として抜擢されます。
ここから橋本左内は幕政、つまり国政の在り方に大きく関わっていくことになります。
世界情勢はすでに弱肉強食の様相を呈しており、橋本左内はその危機感から、
日本もその潮流に乗らねば生き残れないと判断します。
そして、海外に領土を求める積極的な帝国主義的思想を持ちます。
後年、日本の帝国主義的な思想は批判されますが、それは後知恵による批判でしょう。
日本に迫った外国からの圧力、危機を考えたときに、
逆に海外に出て行かねばならぬと考えた橋本左内の思想は、
当時の思想としては先進的でさえあったと評価できます。
しかし彼は、幕政に大きく関わりすぎ、将軍後継問題で井伊直弼と対立し、
安政の大獄で刑死することになります。
橋本左内の弟、橋本綱常が橋本家と医業を継ぐ
(画像:橋本綱常Wikipedia)
橋本左内の弟に橋本綱常がいます。
彼が橋本家の医業の後を継ぐことになります。
橋本綱常も兄に劣らぬ優秀な人材でした。
幕末時代に日本の医学に貢献したオランダ人医師のポンペに師事し、
ポンペ帰国後は、当時日本最高の医師のひとりであった松本良順に学びました。
明治維新後は、ドイツ留学後、明治政府内の医学政策に大きく関わり、
軍医総監、陸軍省医務局長を経て、日本赤十字社病院の初代医院長となります。
ドイツで万国赤十字条約加盟のため奔走したのも彼でした。
その後、宮中に西洋医学を導入する建白書を提出するなど、
日本の医学の近代化に大きく貢献した人物です。
橋本左内が大伯父 ゆるゆるな中国文学者奥野信太郎
橋本左内を大伯父に持つ中国文学者に奥野信太郎がいます。
慶応大学出身であり、橋本左内の学んだ適塾が、
慶応大学の源流のひとつと考えると、後輩であるともいえるかもしれません。
橋本左内が思想的にかなり尖っていたのは、15歳のときに書いた「啓発録」や、
その後の政治的な姿勢などを見ますと分かります。
しかし、幕末の尖った英傑・橋本左内を大伯父に持つ奥野信太郎は、
かなりゆるいというか達観した人生観をもっていたようです。
自分のことをかなり劣った人間であると評する一方で、
それでもいいじゃないかと肯定する言葉を書き残しています。
劣っている自分に我慢ができず15歳のときに「啓発録」を書き、
激しく生きた橋本左内とはまた違った生き方をした中国文学者でした。
勤皇の志士、博愛の医師、ゆるい文学者を出した多彩な橋本家
橋本左内という若き天才、英傑と呼ばれ、
過激ともいえる思想を持った勤王の志士を生み出した橋本家。
しかし、その生み出した人材は多士済々です。
弟の橋本綱常は、医師として当時の最先端の知識を得る道を進み、
そして明治維新以降は、政府内の医療政策に大きく関わっています。
日本赤十字病院の初代医院長になるなど、人道博愛の医師でした。
そして、橋本左内を大伯父に持つ中国文学者である奥野信太郎の考え方は、
まるで橋本左内と対極をなすような、ゆるさを持っています。
ダメであること劣等感を持つことをそのまま許容するような生き方を主張しました。
どちらが正しいということではないでしょう。
ただ、橋本左内の生きた時代の苛烈さが、彼の生き方、
帝国主義的と後年評されることになる思想を創ったとも言えます。
そして、本来の稼業であった医学に生きた橋本綱常や
中国文学者の奥野信太郎も時代の中で評価される人材です。
このような多彩でバラエティに富んだ人物を輩出したのが橋本家なのです。
幕末ライター夜食の独り言
橋本左内の生家である橋本家は、本来医学の家柄ですから、
その本道を歩んだのは弟の橋本綱常かもしれません。
彼も非常に優秀な人材であり、日本の医療政策の近代化に貢献した人物です。
そして、橋本左内の苛烈な自己批判から生まれたともいえる「啓発録」と、
それに恥じないように生きようとした彼の人生とまるで、
正反対のような主張をする中国文学者の奥野信太郎も橋本家の人です。
このようないろいろな人物を輩出した橋本家はなかなか興味深いものです。
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