高杉晋作が組織した軍組織・奇兵隊の名前は有名です。身分の隔てなく武士だけではなく、農民や被差別民も兵に加えました。
奇兵隊は決して身分差の無い平等な組織ではありませんでした。しかし、今まで軍事を担っていた武士の特権を崩していったという側面があるのは事実でしょう。今回は、長州藩の鬼才・高杉晋作が組織した奇兵隊について歴史的な意義を含め考察していきます。
この記事の目次
吉田松陰の草莽崛起論から誕生した奇兵隊
奇兵隊は長州藩の藩士・高杉晋作が提案し、1863年6月にできました。長州藩は下関戦争で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国にぼろ負けします。長州藩は強烈な攘夷思想を持っている藩でしたが、武力による攘夷を実施しようにも彼我の戦力差、兵器の性能の格差などを思い知ります。
そもそも、奇兵隊の根本的な発想は高杉晋作の師にあたる吉田松陰の「草莽崛起論」という考え方に基づくものです。「草莽」とは古代中国の哲人「孟子」の言葉で「国民」を指します。民草みたいな意味でしょう。「崛起」は字面から想像はつくかもしれませんが「蜂起」という意味です。国民が蜂起する。国民皆兵、身分に関係なく兵となり戦うという考え方です。
この考えを高杉晋作は実行します。武士だけではなくあらゆる階級、身分から兵を募り組織します。被差別民すら奇兵隊に加えました。その割合は武士が50%、農民が40%、残りがその他の階級の者となります。志願制であると伝わっていますが、半ば強制的に奇兵隊に「徴兵」された者もおり、完全に志願制ではないというのが、最近ではわかってきています。
この点、傭兵から常備軍ができていったヨーロッパにおいても、騙して兵隊にするということは行われていました。志願だけでは中々兵隊が集まらないのは洋の東西変わらぬ現実なのでしょう。
実は3か月しか総督の地位になかった高杉晋作
高杉晋作は奇兵隊の創設者として歴史に名を残しましたが、実は奇兵隊の総督の地位には3ヶ月しか就いていませんでした。高杉晋作は教法寺事件の発生によりその責任をとらされ、奇兵隊総督の地位を罷免されてしまうのです。
教法寺事件とは、奇兵隊と長州藩の正規軍であり、藩士で組織された軍である 撰鋒隊(先鋒隊)が衝突した事件です。いわゆる長州藩内のふたつの軍隊が争ってしまったのです。撰鋒隊(先鋒隊)は正式な武士の軍です。撰鋒隊(先鋒隊)はあらゆる階層からより集められた奇兵隊を馬鹿にし、奇兵隊は、下関戦争で負けてしまった撰鋒隊(先鋒隊)を馬鹿にします。お互いが罵りあい、いがみ合い、とうとう奇兵隊により撰鋒隊士が切り殺されるという事件が起きてしまいます。これが教法寺事件です。
この結果、高杉晋作は責任を追及されます。切腹寸前とまではいきませんでしたが、奇兵隊総督を罷免されてします。高杉晋作が奇兵隊総督という奇兵隊を率いる地位にいたのはたった3ヶ月しかありませんでした。
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本当は階級差があった奇兵隊
高杉晋作の創設した奇兵隊はあらゆる階層から兵を募ったため、平等な軍隊であるというイメージが今もあるでしょう。しかし、実際は奇兵隊内では厳然と身分差、階級差が維持されていました。そもそも、尊皇攘夷思想に燃える志願してきた人材だけを集めたわけではなく、かなり強制的に兵を集めていることも分かっています。階級差、身分差が分かるように隊服が異なっていましたし、隊の規則にもきちんと身分の区別をすると記されています。奇兵隊が平等な軍隊という話は俗説であることが分かっています。
被差別民を屠勇隊として奇兵隊に編入「四民平等」の先駆になる
確かに奇兵隊の中には身分差があったのですが、そもそも「戦う」ということは武士の専売特許であり、特権でもあったわけです。それを他の階級にも行わせることは、それだけで、身分制度を揺るがす考え方でした。それゆえに、藩の正規軍である撰鋒隊(先鋒隊)との争いも起きました。武士だけの軍からみれば、奇兵隊は自分たちの既得権益を侵す存在なわけです。
奇兵隊は被差別民を屠勇隊として編入し、広い階層の組織を作り上げました。確かに隊内に身分差を規定する規則はありましたが、軍が民衆によって組織されるということが、後の四民平等の考えのさきがけとなった側面はあるでしょう。
明治に入り、徴兵制が実施されます。兵役の義務を負う国民は天皇の前では等しく平等な国軍となります。士族が自然に士官になるというわけでもなく、日本の軍は「兵舎の平等」が徹底されたものとなります。軍隊内の平等は、四民平等によって実現したものですので、ある意味、奇兵隊はその考えの先駆たる存在であったのかもしれません。
奇兵隊が強い理由は散兵戦術とライフル銃を逸早く取り入れたから
奇兵隊が強かった理由は、西洋の最先端戦術であった散兵戦術と、ミニエー銃というライフリングが切ってある小銃を装備した点にあります。まず、散兵戦術ですが、ヨーロッパでは銃撃、砲撃が進歩し、戦場において密集隊形をとることは非常に被害を大きくすることが分かっていました。兵は小部隊で分散し、集中攻撃による被害を受けないようにするのが、19世紀の戦争の最先端の戦術のあり方だったのです。
高杉晋作の生み出した奇兵隊はこの最新式の戦術を採用しました。そして、装備した小銃が、優れていたということも上げられます。小銃のことをライフルといいますが、ライフルとは銃口内にらせん状に切られた溝のことを指します。これにより、どんぐりのような形をした弾丸に回転を与え、弾道を安定させ、命中率を上げるのです。その威力は従来のライフリングされていない銃の数倍の射程と命中率をもっていました。このような、西洋の最新戦術と火力の優位が奇兵隊の強さを実現させていました。
脱退騒動と奇兵隊の滅亡
明治に入り、長州藩も版籍奉還により、石見国浜田と豊前国小倉の返却が実施されます。そのため、長州藩は財政難となり、奇兵隊を含む長州軍の規模縮小を実施するのです。奇兵隊を含み5000人を抱えていた長州軍は、財政削減のための軍縮により3000人が解雇されます。解雇された兵たちは何の保証も無く放り出されました。解雇された兵のほとんどが平民兵です。
そして、残った兵も1200人が脱退騒動を起こします。その後、奇兵隊の残党を中心に、自分たちの扱いに対する反発が生まれてきます。元奇兵隊の兵士が反乱を起こします。それを鎮圧したのが、木戸孝允(桂小五郎)です。反乱を起こした、兵に対しては徹底した処罰が行われ133人が処刑されます。
その後、奇兵隊は完全に軍としての意味を失い、脱退したもと兵士は各地で反明治政府の反乱に加わるようになっていきます。国軍が組織される中、いずれ消えていく運命であったであろう奇兵隊ですが、長州藩内部の問題で、明治に入り早々に自壊するかのように滅亡していったのです。
幕末ライター夜食の独り言
奇兵隊は高杉晋作の手を離れると、師の吉田松陰に「棒切れ」(使いようによっては使える)と評された山県有朋によって育てられます。この山県有朋は、やがて帝国陸軍の育ての親となり、帝国陸軍の基礎を作り上げていきます。陸軍は徴兵制をベースとした国民皆兵の軍隊です。この点で海軍が志願制を中心としているのと異なっています。
奇兵隊が実は、志願制だけではなく、強制的な徴兵のようなものを行っていたことは、後の徴兵制、国民皆兵の考えを先取りしたものといえるでしょう。また、あらゆる階層が集まるというとこまでしかいけなかった奇兵隊から、帝国陸軍は一歩進み、異常なまでに「兵舎内の平等」を強調するようになります。
実態は中々そうはいかなかったのですが、帝国陸軍の方針として目指していたことは事実であり、ある部分では実行されていました。結果、地方(軍隊から見た民間)の立場や身分など軍隊に入れば関係ないという文化が生まれます。この根っこの部分では、奇兵隊を育て、帝国陸軍の父と呼ばれるようになる山県有朋の影響はあったのかもしれません。
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