三国志演義においては、諸葛亮の軍略の全てを伝授されたとされる姜維、
しかし、史実では姜維だけが諸葛亮の軍略を継いだわけではありませんでした。
孔明が全く預かり知らない所で彼の軍略を高く評価し、魏そして晋帝国に
伝えた人物がいたのです。
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この記事の目次
蜀の滅亡後 諸葛亮イズムを吸収した陳勰
諸葛亮の軍略を継いだ姜維以外の人物、それは魏に仕えた陳勰です。
「誰それ?」大概の人はそうでしょうね、実はkawausoも知りませんでした。
こちらの陳勰は晋書二十四巻の職官志に登場する人物であり、
記録によると、魏の文帝の時代から仕えていました。
特に軍令に優れた才能があったので、魏が滅亡して晋が建国されても
司馬昭は、陳勰に目をかけており、軍隊の運用について委任していたようです。
そして、263年、蜀を滅亡させた年に陳勰も従軍させて、特別に命令を与え
諸葛亮の陣や用兵、手旗信号などを覚えるように命じています。
陳勰の優れた点は、これらの諸葛亮の軍略の一切を
メモも取らず暗記全て理解できたという事でした。
諸葛亮の兵書は焼却されたのではないか?
不思議なのは陳勰が何故か、諸葛亮の軍略を全て暗記して帰った事です。
これはどうしてなのでしょうか?
常識的に考えて、これは世間に広まってはいけないものだと、
司馬昭なり陳勰が考えていたのかも知れません。
もしかすると、陳勰は諸葛亮の兵書を全て暗記した上で、
全てを焼き払ったのではないかと推測します。
そうでなくても、蜀では、鍾会と姜維が共謀して独立を図った程ですし
秦嶺山脈などがあり、攻めにくく守りやすい地形ですから、
独立勢力にプラスになりそうな孔明の兵書は廃棄した方が無難だと
そう考えたのではないでしょうか?
諸葛亮の兵書が重用されたのは司馬懿の遺言か?
司馬昭が陳勰に諸葛亮の軍略を収集するように命じていたのは、
父である司馬懿の遺言だったのではないでしょうか?
司馬懿は、孔明没後に撤退した蜀軍の跡地を調べて
「孔明は天下の奇才」だと慨嘆したそうですから、
かねがね、その軍略には一目置いていた可能性もあります。
いつか蜀が滅ぶ時に、その軍略を回収して活かすようにと
司馬昭に言い残していたのではないかと思うのです。
諸葛亮が開発した対騎兵用の車蒙陣が晋の馬隆に使用された
孔明の残した軍略に八陣図がありますがその中に車蒙陣が記されていました。
車蒙陣とは騎兵の攻撃が予測される状態で、身を隠す森林や丘や河がない場合に
補給車両や戦車を横倒しにして防御に利用した陣でした。
実際に車蒙陣は晋の建国期の将軍である馬隆が、279年
鮮卑の禿髪樹機能が涼州を制圧した時に車蒙陣を用いて鮮卑を撃破してしています。
どのような方法かと言うと、まず、射術に巧みな弩兵3500人を選抜し
八陣図に則って偏箱車と呼ばれる盾を装備した車両や、鹿角車という
角を張り巡らした車で戦場の外周を巡回させます。
こうして騎兵を逃げられないようにしつつ、
狭い道などでは、木の屋根を造って車の上に掛けて
弩を撃ちまくり鮮卑族を撃退したようです。
つまり、八陣図とは、偏箱車や鹿角車を多用して弩兵を守りつつ、
こちらは、ありったけの弩を撃ちまくるという装甲車戦法でした。
禿髪樹機能は、数万人という被害を出して割に合わなくなり、
ついには、1万人の部下を引き連れて馬隆に降伏しています。
晋の近衛軍は、諸葛亮の兵法で動いていた
陳勰は晋に帰還した後に、殿中典兵中郎将から将軍に昇進したそうです。
殿中の兵は王宮を守る近衛兵ですから、諸葛亮の軍略は晋の近衛兵によって
受け継がれたという事になりそうです。
先ほど触れた馬隆も陳勰から諸葛亮の軍略を伝授されたのかも知れません。
余談ですが、馬隆は禿髪樹機能の軍勢が全て鉄の鎧で武装している事から
強力な磁石を利用して、軍勢を足止めしたと言われています。
馬隆の軍勢は犀皮の鎧で磁石の影響を受けないので、
禿髪樹機能の軍勢は馬隆を神のようだと思ったそうです。
どうです、この強力磁石で足止めという超科学戦術、
ものすごく孔明の戦術くさい感じがしませんか?
三国志ライターkawausoの独り言
諸葛孔明の八陣図は、晋の時代に失われたそうです。
そうでなくても五胡十六国時代は300年を超える戦乱で
多くの書物が灰になっているので
その中に八陣図もあったのではないでしょうか?
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