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【西郷どん】さらば斉彬!幻の上洛計画に迫る

2018年4月22日


 

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島津斉彬

 

4月22日の西郷どん、15話では物語を引っ張ってきた島津斉彬(しまづなりあきら)が急死します。

はじめての三国志では、島津斉彬について、様々に解説してきましたが、

その総決算として、成功すれば10年早く明治維新を迎えるかも知れなかった

島津斉彬幻の上洛計画を紹介します。

幕末の牽引者、島津斉彬の上洛計画はどんなものだったのでしょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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将軍後継者は慶福に決定、もはやこれまでと決意した斉彬

 

島津斉彬の政治構想は、雄藩連合(ゆうはんれんごう)というものでした。

江戸開府以来、一握りの譜代大名(ふだいだいみょう)(井伊、酒井、水野等)に握られた政治を

天皇の下に返還する事で、徳川のみならず力がある雄藩が政治に関わり、

西洋帝国主義に対処していこうという大きな大義があるものです。

徳川慶喜

 

斉彬は、この考えを穏便(おんびん)に実行する為に、(そんのう)の藩であった水戸出身の

一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を14代将軍に据え、その功績を元にして、譜代の独占物だった

幕府の政治を諸大名にまで解放しようと考えたのでした。

 

しかし、構想は頓挫しました、一つは保守的な大奥が血縁を重視して、

12歳の紀州藩主、徳川慶福(とくがわよしとみ)を養子に望んだ事であり、もう一つは一橋慶喜の

実父である徳川斉昭(とくがわなりあき)が、セクハラとパワハラで大奥の評判が最悪という事でした。

頼みの綱であった盟友のイケメン老中、阿部正弘(あべまさひろ)も病気で急死していて

後任の大老には、譜代大名筆頭の井伊直弼(いいなおすけ)が立っていました。

井伊直弼

 

井伊は独断で天皇の許可を得られないまま日米修好通商条約を締結し

これに抗議して登城した水戸派の大名に謹慎処分(きんしんしょぶん)を食らわします。

もはや穏便な幕府改革は不可能と斉彬は判断、武力を背景にした

もう一つの幕政改革案を密かに決意します。

 

琉球使節の江戸上りを利用し軍勢を京都に結集させる

(画像:琉球江戸上りWikipedia)

 

斉彬公史料によると、この時に島津斉彬は家臣に対して、

 

「一大策アリ、三四千ノ兵ヲ引テ上洛イ夕シ後幕府ニ其意ヲ堅フシテ

勅詫ヲ以テ処分スルノ心得」と語ったと言います。

 

つまり、3~4千人の兵を率いて京都に上洛し天皇を擁した上で

幕府に対して譴責(けんせき)(ちょく)を出させて強圧的に幕政改革を迫るというのです。

また、「安政紀事紗」では、斉彬が井伊直弼が独裁によって

親藩の大名を幽閉した事に触れ、井伊大老は本気で尊王派を撲滅(ぼくめつ)する気であり

もう文字の上でどうこうする事態ではないと断定した事が書かれています。

キレる井伊直弼

 

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)以後の井伊大老の弾圧ぶりを見ると、

斉彬の洞察力は井伊大老の内心を(えぐ)っている事が分かります。

島津斉彬は武力衝突を恐れない、恐ろしく行動的な大名だったのです。

 

そして、13代将軍の就任を祝う琉球使節の江戸上りの行列にかこつけ

その護衛の為として、

「小銃の近代式のものを二千丁、野戦砲も十門、蒸気船を一二隻」

長崎で都合するようにと命じているというのです。

 

西郷どん

 

琉球使節のコースを変更して京都に滞在させる予定だった斉彬

天皇のシルエット

 

それまで、琉球使節の江戸上りは、東海道を通り京都は素通りでしたが

斉彬が一八五八年に作成した計画では、京都に滞在する事になっています。

琉球使節の江戸上りを武力上洛の隠れ(みの)にしようとしていたのです。

 

また、一八五七年、五月、斉彬は薩摩に帰る途中に京都に立ち寄り、

左大臣、近衛忠煕(このえただひろ)邸で、三条実万(さんじょうさねつむ)中山忠能(なかやまただよし)らの公家と密談していて、

兵庫開港と、大坂開市における不測の事態が起きた場合に関する、

御所の護衛について意見を取り交わしていますが、

その際に琉球使節を京都に滞在させる計画も手配されたようです。

 

つまり、斉彬は思い付きで上洛計画を立てたのではなく、

井伊直弼が大老に就任する前から、もう一つの幕政改革計画について

周到に根回しをしていたのです。

 

この二重、三重の根回しこそが島津斉彬の(すご)みであり、

一度、兵を発してしまえば江戸上りを隠れ蓑にした薩摩藩兵は、

容易(たやす)く京都に到着してしまったでしょう。

 

島津斉彬の武力上京は成功したのか?

島津斉彬

 

では、島津斉彬の武力上洛は成功したのでしょうか?

kawausoは成功した可能性はかなり高いと考えています。

 

それというのも、当時の幕府は諸大名の意見をまとめる事も出来ず

グロッキー寸前に追い込まれていたからです。

 

アメリカ総領事として日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)の締結に功績のあった

タウンゼントハリスの「日本滞在記」には、幕府外交官の井上清直(いのうえなおきよ)の言葉として

十八ある雄藩の中で幕府の政治に従っているのは、僅か四藩に過ぎない事、

そして、中小の潘でも幕府に従うのは三割程で、後の七割は反対であると書いています。

だからこそ、井上清直はハリスに天皇の勅許(ちょっきょ)が必要だとしたのでしょう。

 

斉彬が藩兵三、四千人と蒸気船12隻を率いて京都を取ってしまえば

孝明天皇が攘夷である事を考えても

幕府が軍を起こして斉彬を討伐するのは、まず不可能であり

決行したとしても、周辺の諸藩は幕府に味方しなかったでしょう。

ショックを受ける孝明天皇

 

また、孝明天皇は倒幕には反対ですが、幕府の独裁には不安がありました。

西郷どんは、当時、斉彬のプランで奔走し薩摩藩兵を率いて彦根城を攻め落とし

井伊が隠居せざるを得ないように持っていこうとしていたようです。

 

斉彬の意図が倒幕ではなく、大老井伊直弼の処分である以上は、

幕府は追い詰められたわけではなく、井伊を処分すれば話は済むので

朝廷の命令を受け入れた可能性は高いでしょう。

 

こうして、文久の改革を待たず井伊直弼は失脚し島津久光(しまづひさみつ)が藩兵七百名を率いて

京都にやってくる五年前に幕政改革は実現していたと考えます。

   

幕末ライターkawausoの独り言

kawauso

 

ここまで具体的に上洛計画を立てていた以上、隠居した島津斉興(しまづなりおき)が、

斉彬を本気で毒殺しようとした可能性は高いように思えます。

計画を察知していたとはいえ、全てを把握していない斉興は、

失敗すれば藩が滅亡する上洛計画を本気で阻止したかったでしょう。

斉彬の上洛計画は、同時に自身の暗殺を招いたのです。

 

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