中岡慎太郎と言えば、坂本龍馬とともに薩長同盟の斡旋に尽力した人物で有名です。中岡慎太郎と言えば、笑顔と謎の女性の写真も有名です。この記事では、最初に土佐藩時代の中岡慎太郎について取り上げます。後半では中岡の写真を取らせた人物と新選組局長近藤勇との意外な関係について取り上げます。
この記事の目次
西洋かぶれとも言われていた中岡慎太郎
中岡慎太郎は1838年に土佐藩の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれました。1861年に武市瑞山(半平太)が結成した土佐勤皇党に加盟して、土佐藩の尊王攘夷派として活動を始めます。土佐藩内で尊王攘夷派の弾圧が始めると、長州藩に亡命しました。坂本龍馬との関係は土佐勤皇党にいた頃に始まります。
中岡と坂本龍馬は土佐勤皇党で出会いましたが、土佐勤皇党が解散させられると、龍馬は勝海舟のもとでアメリカ型の政治体制を学び、共和政治への憧れを強めていきます。一方で、中岡は長州藩で過激な尊皇攘夷運動に加わります。中岡は尊皇攘夷運動に加わっていましたが、1862年に佐久間象山を訪れます。佐久間象山から西洋の技術や知識を学んだことや後に龍馬が結成する亀山社中で西洋の技術にふれました。
このことがきっかけで、中岡は尊皇攘夷から西洋かぶれになったと言われています。西洋化を進めていた薩摩藩と長州藩は薩長同盟を締結することに全力を尽くします。やがて、雄藩連合による武力倒幕へと傾くことになりました。
中岡慎太郎に写真を撮らせたのは坂本龍馬?
写真技術は幕末に長崎に伝えられます。日本最初の写真は銀板写真と言われ、島津斉彬が持ち込んで撮影させたことで有名です。坂本龍馬と中岡慎太郎の写真も幕末に長崎で伝えられた写真技術で撮られたものであると考えられます。中岡と龍馬の写真についてどの場所で撮られたものか気になります。
坂本龍馬の写真は上野彦馬が創業した上野撮影局で撮られています。一方で、中岡慎太郎の写真については長崎ではなく京都の「西洋伝法写真処」で撮影されたと考えられます。
中岡慎太郎の写真に隠された謎の女性
当時の武士の写真と言えば、真面目そうな表情をした写真が思い浮かぶと思います。中岡慎太郎の写真には真面目そうな写真がありますが、右手で頬杖をついて首をかしげてこぼれるような白い歯を見せて笑っている写真もあります。
中岡の写真には隣に女性が写っています。祇園の芸者だと考えられますが、黒く塗りつぶされている写真もあります。この塗りつぶされた写真は中岡の愛人と推測されてきましたが、確定ではありません。京都の「西洋伝法写真処」では、女性モデルを使って、被写体の侍と組み合わせて撮影することをやっていることで有名になっていました。中岡慎太郎の写真の隣にいる女性については写真店のモデルである可能性があります。
中岡慎太郎の陰に近藤勇?中岡暗殺にも関係がある?
中岡慎太郎が撮影で利用した京都の「西洋伝法写真処」については、新選組局長近藤勇も写真撮影をしています。この写真店で中岡慎太郎と近藤勇が何らかの接点があった可能性があります。写真店という共通の接点は見つかりましたが、近藤勇が中岡慎太郎の暗殺に関与したかどうかについては謎のままです。
坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺について、元見廻組隊士が龍馬を暗殺板と自供したことや元土佐藩士の谷干城が新撰組の仕業と主張しているだけで決定的な証拠には至っていません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は中岡慎太郎の写真に映っている謎の女性について取り上げました。中岡の愛人か写真店のモデルか確定に至っていませんが、今後の研究に注目したいと思います。
中岡や近藤らが利用した京都の写真店「西洋伝法写真処」はモデルとのセット撮影で千両を超える売り上げがあったそうです。写真が伝えられたばかりであることやモデルとのセット撮影が評判になっていました。現在ではアイドルとのツーショット写メやチェキが挙げられます。アイドルとのツーショットの原点が幕末の京都の写真店にあったのかもしれません。
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