『三国志』好きな皆さんの中には、中国の他の時代の歴史にも興味を持つ人がいるのではないでしょうか?
『三国志演義』から正史『三国志』に興味を持ち、更に他の正史を読む必要性があると感じた結果、『史記』や『漢書』、『後漢書』といった『三国志』の前の時代に目を向ける人もいれば、司馬氏によるクーデターの後が気になって『晋書』に手を伸ばす人もいるでしょう。しかし、それらの歴史書を読み終えると、他の時代のことまで気になり始めてしまうに違いありません。そこでほとんどの人がふと疑問に思うのは「中国の歴史書ってどのくらいあるんだろ…?」ということではないでしょうか?
実は、正史と称される中国の歴史書は二十一史と総称されたり、二十二史と総称されたり、そうかと思えば二十四史と総称されたりとけっこうマチマチです。一体何がその違いを生んでいるのか?その謎に迫っていきたいと思います。
二十一史とは?
まず、二十一史と総称される正史には何が含まれているかをチェックしていきたいと思います。まずは、前漢の人・司馬遷が編んだ『史記』。五帝という伝説の帝王がいた時代から前漢・武帝の時代までを描いた通史です。続いて後漢の人・班固が編んだ『漢書』。前漢代のみを描いた断代史です。そして、後漢代を描いた断代史である南朝宋の人・范曄が著した『後漢書』。
我らがよく知る三国時代を描いた西晋の人・陳寿の『三国志』。西晋から東晋にかけての時代を描いた唐代の人・房玄齢による『晋書』。南朝宋の歴史を記した南朝梁の人・沈約による『宋書』。
南朝梁の人・蕭子顕が著した南斉の歴史書『南斉書』。南朝梁の時代を描く唐代の人・姚思廉による『梁書』。これまた姚思廉によって著された南朝陳の歴史書『陳書』。北斉の人・魏収を中心に編纂された北魏の歴史書『魏書』。北斉の時代を描く『北斉書』は、唐の太宗の勅命を受けた魏徴が総括し、主に李百薬が編纂したとされています。
同じく唐の太宗の勅命を受け、令狐徳棻が編纂した『周書』は、北周の歴史を描いたものです。私たちにもなじみ深い隋代を描いた『隋書』は、唐代の魏徴や長孫無忌によって編纂されました。『漢書』からここまで断代史が続きましたが、ここで通史『南史』の登場です。唐代の李延寿によって描かれたこの『南史』には、南北に分裂していた時代における南朝すなわち宋・斉・梁・陳の4つの王朝の歴史が描かれています。
そして、それと対応するのが『北史』。これもやはり、李延寿によって著されたものです。北朝の魏・北斉・北周・隋の4つの王朝の歴史を通観できます。宋代の欧陽脩・宗祁らが仁宗から勅命を受けて『旧唐書』を改訂した『新唐書』。これまた欧陽脩が編纂した後梁の太宗から後周の恭帝までの歴史が描かれている『新五代史』。
元代の脱脱を中心として編纂された北宋・南宋の歴史書『宋史』。これまた脱脱と欧陽玄らが元の順帝の勅命を受けて編纂した遼代の歴史書『遼史』。そしてまたまた脱脱によって描かれた金の歴史書『金史』。最後に、明代の人・宋濂が中心となって編纂した元代の歴史書『元史』です。
二十二史とは?
続いて、二十二史ですが、二十一史に一史加えただけだろうと思う人もいると思いますが、そう単純ではないようです。
この二十二史の解釈は二通りあります。二十一史に旧唐書を加えるというものと、二十一史に明史を加えるというものです。『旧唐書』とは、先ほど『新唐書』について紹介する際にも簡単に触れましたが、五代後晋の人・劉昫が中心となって編纂した歴史書です。
この『旧唐書』は何かと不備が多く、それを補った『新唐書』が著されたのを機に人々に読まれなくなってしまったちょっと不憫な歴史書です。しかし、清代になるとその資料的な価値が見直されるようになり、『旧唐書』も正史に加えようという風潮が興ったのでした。ところが、それを許さない人たちも当然いたため、清代の人・張廷玉らが王鴻緒の『明史稿』をもとに編んだ『明史』を加えて二十二史だと主張した人たちもいたというわけです。
二十四史とは?
そんな二十二史論争に終止符を打ったのが、清代の乾隆帝です。乾隆帝は『旧唐書』も『明史』も、さらに北宋の薛居正らが編んだ『旧五代史』まで加えて二十四史を正史とすると定めたのでした。これにて中国の正史問題は一件落着したわけです。
三国志ライターchopsticksの独り言
実は、中国の正史は二十五史だ!いや、二十六史だ!という声も上がっています。二十五史は台湾の柯劭忞が著した『新元史』を加えたもので、二十六史は二十五史にさらに同じく柯劭忞による『清史稿』を加えたものということだそうです。正史の事情は複雑怪奇ですね。
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