三国志の時代より千年ほど昔の春秋時代初期には、合戦の主力は馬に引かせた戦車でした。
諸国の君主と血のつながったような士大夫たちが戦車に乗り、敵味方双方がきちんと陣容を整えてから会戦するのが戦の作法でした。
戦いの動員人数も少なく、軍略よりは戦士個々人の技と誇りで戦果を勝ち取るような世界でした。
そんな時代に、まるで『孫子の兵法』のような采配をとる異色の人物がいました。
名前は曹劌(そうけい)。
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現場を知っている者の自信
曹劌の戦いの記録は『春秋左氏伝』の荘公十年(紀元前684年)の箇所にあります。
その年の春、斉国が曹劌のいる魯国に攻め込んできました。
曹劌は思うところがあり魯の君主・荘公に会いに行こうとしました。
同郷の人はこう言って曹劌を止めようとしました。
「肉を食べるような貴い身分の卿大夫が軍略を練っているのだから、差し出口をすることもなかろう」
すると曹劌は次のように答えました。
「高貴な人たちは分かっていない。遠くまで見通すレベルには達していないのだ」
この様子からすると、曹劌は身分の低い戦士のようです。
春秋時代の支配者階級には「卿・大夫・士」という身分がありますが、「卿」や「大夫」は国君と血がつながったような貴族で、
「士」は卿や大夫の一族郎党です。
戦いの主力は彼らでも、卿や大夫たちの軍議にしゃしゃり出たら“下郎が何しに来たのか”と思われかねない身分です。
呼ばれもしないのに経営会議に乗り込んでプレゼンを始めちゃう部長さんみたいな感じでしょうか。
徳よりも実務で評価
曹劌は国君・荘公に会うと、質問をしました。
「何を戦力のよりどころとしておられますか」
「衣食は独り占めにせず、必ず人に分け与えている」
「そのような小さな恩恵は行き渡っておりません。民は従わないでしょう」
「祭祀に供える犠牲の玉帛にはよけいなものは加えず、信を以て祭っている」
「そのような小さな信ではまことをつくすには足りません。神は福を与えないでしょう」
「訴え事は大きなものでも小さなものでも、実情を審らかにすることまではできなくても情を尽くして審理している」
「そのような誠意がおありなら一戦することができるでしょう。お供させて頂きます」
春秋時代の合戦では戦士の士気が勝敗を大きく左右しますので、
下々の心を全然つかんでいないトンチンカンな君主の軍は戦いに勝てません。
曹劌は荘公が勝てる君主なのかどうか品定めしたんですね。
バラ撒き政策や神だのみは政治的には無効、訴え事を誠実に裁くのは善政であってみんなが支持するだろうという結論のようです。
「徳」よりも実務で評価するという、古代人らしからぬ発想です。
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軍の気勢を読んでの勝利
斉軍との会戦の日、曹劌は荘公の戦車に同乗しました。
いざ開戦ということで荘公が進軍の太鼓を鳴らそうとすると、曹劌は
「まだだめです」
と止めました。
斉軍は太鼓を鳴らしますが、魯軍が動かないので戦いが始められず、焦れてもう一度太鼓を鳴らします。
魯はまだ動きません。
斉軍が三度目の太鼓を鳴らしたところで、曹劌は言いました。
「今です」
そこで魯が太鼓を打ち鳴らして攻め込むと、斉軍は大敗しました。
満を持して攻め込んだ魯軍と、さんざん焦らされてだれた斉軍。
軍の気勢をコントロールしての勝利です。
荘公が追撃しようとすると、曹劌は
「お待ち下さい」
と止めました。
そうして戦車を下り、斉軍の車の轍(わだち)の跡を観察し、次は戦車の軾(車の横木)の上に登って斉軍の様子を眺めやり、
「追撃して下さい」
と言いました。
そこで追撃をかけ、斉軍を駆逐することができました。
戦が終わってから荘公が曹劌にどういうことだったのか質問すると、曹劌はこう答えました。
「戦は気力です。斉軍は一度目の太鼓で気力を漲らせ、二度目では衰え、三度目では気力が枯れました。
向こうが枯れたところでこちらは気力を漲らせてかかりましたから、勝つことができました。
追撃の時には、相手が一筋縄ではいかない大国であるため、伏兵があるかもしれないと考えました。
轍の跡を見ると乱れており、軍の様子を眺めやると旗が倒れておりましたので、これならば追撃してもよいと判断したのです」
春秋時代らしからぬ合理主義
春秋時代の初期は、祭祀と政治が密接に結びついていましたので、合戦のやり方は神への祭りがきちんとできていれば
勝てるんじゃないかという程度の考え方でした。
(というか、きちんと祭祀をやっているから勝つはずだーって気合いを漲らせた方が勝つ)
また、「礼」というものを非常に大事にしておりまして、礼に合致している者が勝たなければならない、いや勝つはずだ、という考え方でした。
実際、その程度の考え方でも、戦士の技と誇りで勝敗が分かれるような合戦なら勝てるんですけれども。
普通の人たちはやみくもに「うぉーっ!!」って言っていれば勝てると思っていた時代ですが、曹劌は「うぉーっ!!」の源を分析し、
その行方をコントロールし、敵の「うぉー……」の痕跡を観察するという、頭を使った戦い方をしました。
当時としては希有な軍略家であったと思います。
三国志ライター よかミカンの独り言
曹劌は味方の状況と敵の状況を冷静に把握して勝利しました。
『孫子の兵法』で言うところの「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」です。
この時代、『孫子の兵法』はまだありませんでした。
これは孫子の兵法の著者とされる孫武が生まれる150年ほど前の合戦です。
後代の人は『孫子の兵法』をベースにして戦いますが、それがない時代にもそういう戦い方ができる人がいたとは驚きです。
孫子以前でも、知っている人は知っている勘所だったかもしれませんね。
孫子は先人が蓄積してきたノウハウを整理して文書化したのかもしれません。
孫武は呉に仕えて戦に勝ちまくっているので、『孫子の兵法』以前には一部の人しか知らないノウハウだったのでしょう。
現場にいた曹劌は知っていても、肉を食べているような貴い身分の人たちは分かっていない。
君主のところに押しかけて “俺の言うとおりにやれ!”って言いたくなる気持ちも分かりますね。
現代社会でも、そういうことって、けっこうあるのかな……。