【潼関の戦い】曹操が作成した甬道が合理的過ぎた

2018年9月16日


 

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泣きわめく曹操

 

潼関(どうかん)の戦いは馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)はホームグラウンドであるのに対し、曹操(そうそう)ははるか(ぎょう)からの遠征、さらに補給ルートも河東郡という長さでした。

 

オラオラモードで曹操を追い詰める馬超

 

10万の大軍を維持するには、補給が大変だったわけであり、もちろん、馬超も補給線を破壊する事で曹操を脅かすつもりだったようです。ところが曹操は甬道(ようどう)を作成して、補給を万全に保護した事で、戦いに勝利する事が出来ました。では、曹操が作成した甬道とは、どういうものだったのでしょう?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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甬道とは何か?

劉邦

 

 

甬道とは、元々、皇帝専用の道路を意味していました。天子は、その姿をみだりに見せてはいけないので、建物から建物へ移動する時にその通路の左右に土壁の遮蔽物(しゃへいぶつ)を設けて見えなくしたのです。楚漢戦争(そかんせんそう)の頃、劉邦(りゅうほう)項羽(こうう)滎陽(けいよう)(きょう)(さく)の間で戦っていましたが、食糧を奪われる事を防ぐ為に、甬道を築いて黄河につないで敖倉(ごうそう)(ぞく)を調達したというような記録が出てきます。曹操が造った甬道は、この劉邦が造った甬道に近いものでした。

 

 



車両をそのまま防御壁に利用する合理的な曹操

曹操

 

曹操は潼関の戦いの前に、騎兵による突撃を心配する配下に対して、ならば刺せないようにしてやろうと豪語しています。ここに、曹操が甬道を作成して騎兵の突撃を阻止するプランを最初から持っていた事が分かりますが、あいにく戦場になった黄河の西は、砂が多い土壌で土塁を築くのにも苦労するという性質でした。そこで曹操は、土の壁でも石や、木材を調達するのではなく、補給物資の輸送の為に運んできた車両を横倒しにして並べ、左右に柵を置いて中に()の狙撃兵を置いてガードするという方法を編み出したのです。

 

潼関の戦いの地図

 

この甬道は、蒲坂津(ほはんしん)を渡った所から黄河に沿い南下、次は渭水(いすい)に沿い西に向かって進んでいて、曹操軍の補給地に繋がっています。馬超は、この甬道に手も足も出ず、補給をかく乱して曹操を兵糧切れに追い込むという当初の目的を果たせませんでした。

 

三国志の武器 壕橋 馬超

 

馬車や兵車は補給を行う上でどうしても必要になる輸送車両なので、これをそのまま防御柵として使用するというのは、非常に合理的で一から遮蔽物を築くよりは労力が少なくて済んだのです。

 

 

 

古くから戦車を遮蔽物として利用した中国

古くから戦車を遮蔽物として利用した中国

 

中国では古くから馬車を横倒しにして遮蔽物とし、その内側に弩兵を配置して騎兵の襲撃に備える戦法が存在していました。曹操は、そのような故事をよく知っていたので、これをヒントに甬道を造り補給を万全にする事で、遠征をしているという不利を解消し、馬超や韓遂が率いる騎馬のアドバンテージを無効にしてしまったのです。こちらの弱点を克服し、同時に相手の長所を封じてしまうのは兵法の理想で潼関の戦いで曹操は、これに成功していたと言えるでしょう。

 

 

黄河と渭水に並走させる事で甬道の利便性を向上

黄河と渭水に並走させる事で甬道の利便性を向上

 

また、曹操が甬道を黄河、そして渭水の流れに並行しながら造ったのも非凡なポイントだと思います。近くに河があるという事は飲料水を確保できるという事ですし、同時に騎兵の襲撃がないなら、物資を陸上から河に移して移動距離を稼ぐという方法も取る事が出来るからです。おそらく甬道には、部分部分に開いている部分があり、ここから、補給物資を出したり、入れたり出来たのでしょう。もちろん、そこには守備の為の部隊が配置され騎兵が出現すると補給物資を回収し、急いで閉じるような工夫もされていたに違いないと思います。

 

潼関の戦い

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

曹操の甬道については、馬超の騎兵の突撃を阻止した面からしか語られる事がありませんが、この黄河と渭水に並行して造る事で、飲料水確保と水運利用がしやすくなるようにしたという点を忘れてはいけないと思います。それ位、曹操の非凡な兵法の才が光る戦いだったと言えると思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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