戦国の風雲児、天才的な合理主義者として戦国時代の知名度ナンバー1の織田信長。彼のイメージには、抜け目がなく猜疑心が強く他人に乗じられない人というのがあります。
桶狭間の戦いなどを見ると、人の隙に乗じるのが得意な狡猾な人にも見える信長。しかし、本当の信長は性善説で何度も騙されたお人好しでした。
妹を嫁がせた浅井長政を信じ切り窮地に陥る信長
織田信長の最初の大失敗は、浅井長政を全面的に信じた事でした。信長は妹のお市の方を長政に嫁がせましたが、その際、本来なら浅井側が用意する結婚資金を自分が全額出しています。
ところが、信長はこの浅井長政に裏切られてしまいます。その大きな原因は、信長が浅井・朝倉の同盟関係を考慮せずに徳川家康と共に越前の朝倉氏の城を攻めた事でした。
朝倉氏の批難を受け、迷った末に長政は朝倉氏との同盟を取り、織田・徳川連合軍を背後から襲撃。これにより、挟撃の状態に陥った信長は討ち死にの危機に直面します。ここでは、木下秀吉が殿を務める事でほうほうの体で脱出しました。
そもそもの原因は信長が
「長政は俺の義理の弟だから朝倉との同盟より、俺の方を取るに違いない」と過信していた事でした。裏切りが常の戦国の世とはいえ、長政が古くから関係がある朝倉との同盟より義兄弟の絆を取ると疑いなく信じてしまう楽天ぶり。これを聞いたら、信長の部下達はさぞかし不満ブーブーだったでしょうね。
しかも、これだけ裏切られたのに信長は長政に最期の最後まで秀吉を遣わして降伏を勧めておりさらに、戦後は、長政とその父、浅井久政の頭蓋骨に金箔を塗り大々的に祝宴を催しています。一見するとグロテスクですが、実は頭蓋骨に金箔を塗る行為は、敵を讃え尊敬を示す行為だと言われているのです。織田信長、どれだけお人好しなんでしょうか?
武田信玄の裏切りに信長大激怒!
もう一人、織田信長は甲斐の虎、武田信玄とも婚姻関係を結びました。最初に信長の養女が武田勝頼に嫁いでおり、次には、信玄の娘の松姫が信長の嫡男、織田信忠に嫁いでいます。
こちらの関係は、お互いに相手を強敵と見て、なるだけ正面対決を避けようという考えでしたが、武田信玄は、1572年10月3日、石山本願寺や朝倉義景と同盟を結び、事前通告なしに、徳川領、遠江、三河に侵攻したのです。信長はそれまで、上洛したメリットを活かし、武田と北条の和睦を斡旋するなどなにくれとなく信玄の為に便宜を図っていました。
この時にも、上杉謙信に対して武田信玄との和睦を持ちかけていた途中だったのです。それが、事前通告なしにいきなり裏切られ、信長の怒りはマックスに達します。
「俺は越後と甲斐の和平の為に足利義昭と骨を折っていたのに、事前通告なしに裏切るとは、人をバカにするにも程がある!武士の義理がないのか!こんな恥知らずとは今後、未来永劫同盟など結ばない!ちくしょう、いくら恨んでも恨み足りない程だ」
参考ブログ:覇王織田信長と梟雄武田信玄の同盟は、信玄の裏切りで破たん!
このように、まるで子供のように怒りを爆発させています。確かに信玄に裏切られて、腹が立つのは分かりますが、こんなに怒りを爆発させる程に海千、山千の武田信玄を信じていたんですか?ホントに?相手は自分の親父さえ、今川領に追放するような非情な人なんですよ。なんだか、抜け目がなく猜疑心が強い狡猾な信長像がガラガラ崩れていきます。
松永久秀に何で裏切ったの?と問いただす
松永久秀
松永久秀といえば、毀誉褒貶限りない戦国の梟雄です。しかし、信長は、この久秀を非常に気に入って重用していました。どの程度、気に入っていたのかと言うと、1572年、武田信玄の西上に合わせて、松永久秀が三好義継、三好三人衆と共に背いた時にも、最後に多聞城に籠城した久秀が織田軍の包囲に対し、城を差し出して降伏するとこれを許しています。
しかし、久秀の裏切りは止まず、1577年、今度は石山本願寺、上杉謙信、毛利輝元のような反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱し信貴山城に立て籠もり、再び対決姿勢を鮮明にしました。
ここで信長、久秀をいきなり攻めるのではなく、松井友閑を派遣して、「ねえ、なんで寝返ったの?理由を教えて」と問いただそうとしています。ところが久秀の決意は固く、松井と会おうともしなかったそうです。「うっぜえな!理由なんかあるかィ!わしは信長の天下が気に食わんのじゃ」
そういう意味なのかも知れません。何というか、信長は根が単純な人で、人は優遇してやれば自分に敵意を持つ筈がないと本気で信じ込んで疑わない人のようです。信長は荒木村重の謀反も、当初は言われても信じなかった程であったようで、天性の人を信じやすい人物だったようです。
参考:陰謀の中世日本史 呉座勇一 264p
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
信長がお人好し?そう言われるとにわかに信じられませんが、歴史の部分、部分を見ると、信長は一度ならず、二度、三度、部下や同盟者に手酷く裏切られています。おそらく、これは天性のもので、だからこそ信長は自分を越える能力者を次々に抜擢して仕事を任せ、天下統一の直前まで進めたのでしょう。性善説で部下を信じきるという性格は、底知れぬ大きな器でした。同時にそれは、一度信じると呆れる程に無警戒である事と表裏一体であり信じて軍勢を預けた光秀に討たれたのです。
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