王政復古の大号令とは1867年12月に発表された天皇中心の新政府樹立を目指した命令書です。
この命令書は武力倒幕を目指した薩長が作成しましたが、王政復古の大号令以前、薩長は大義名分を失い倒幕できない状態になりました。
今回は大義名分を失った薩長が一発逆転を狙って王政復古の大号令を出すまでの経緯について取り上げます。
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薩長と幕府の駆け引き―討幕の密勅と大政奉還―
1867年10月に薩長が朝廷内の岩倉具視と結んで徳川慶喜の追討命令を受けました。
この命令のことを討幕の密勅といいます。
徳川慶喜ら幕府側は討幕の密勅が薩長に出されたことを知ると、土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬が前藩主山内容堂を通して徳川慶喜に大政
奉還を建白します。
慶喜は山内容堂の大政奉還の建白を受け入れ、朝廷に政権を返上しました。
慶喜が朝廷に政権を返上したことにより、薩長らの討幕の密勅の大義名分はなくなり、武力による討幕ができなくなりました。
大政奉還により徳川慶喜は新政府内に引き続き留まることが決まりました。
一発逆転の王政復古の大号令
王政復古の大号令とは1867年12月に発表された政体変革の命令書です。
薩長の武力倒幕派が王政復古の大号令を計画しました。
この命令書において、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、三職(総裁・議定・参与)の設置、諸事神武創業の昔への復帰が宣言され、
新政府樹立を目指しました。
王政復古の大号令が薩長によって発表されていましたが、将軍だった徳川慶喜は400万石の大名として新政府内に残っていました。
当時、政権を返上しても朝廷に政治経験がないことからいずれ必要とされ、徳川慶喜は新政府内に残ることができると考えていました。
1867年12月に王政復古の大号令の後に小御所会議が開かれました。
小御所会議において、薩長はクーデターを決行します。
結果、徳川慶喜の内大臣の辞任と領地の一部返上が決まりました。
王政復古の大号令から戊辰戦争へ
薩長は小御所会議で新政府内にいた徳川慶喜を排除することに成功しました。
小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決まると、旧幕府が反発しました。
薩長の武力討幕派の狙いは旧幕府の反発でした。
旧幕府軍が薩長の挑発に乗ると、薩長は旧幕府軍を攻撃する大義名分を得ることができます。
武力で旧幕府軍の排除と徳川慶喜の追討が可能になります。
結果、旧幕府軍が大挙して京都に入ったため、戊辰戦争という明治新政府軍と旧幕府軍との戦争が始まりました。
戊辰戦争の結果など詳しいことは『戊辰戦争-明治新政府軍vs旧幕府軍-』で取り上げます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は王政復古の大号令について取り上げました。
討幕の密勅の大義名分を失った薩長が不利な状況を打開するために王政復古の大号令と小御所会議でのクーデターを決行したことについて
取り上げました。
王政復古の大号令と同じ時期に神仏分離令が出されました。
王政復古と祭政一致という視点から神道の国教化の方針をとりました。
江戸時代まで神仏習合が取られていました。
神仏習合の場合、神社の敷地に寺院があるまたは仏像があることが挙げられます。
明治新政府が神道国教化を決めたことにより、神道と仏教が混ざってはいけないことになりました。
結果、仏教建築や仏像など仏教に関連する美術品が全て破壊されました。
このような仏教を排除する運動のことを廃仏毀釈と言います。
廃仏毀釈によって、寺院が再建されずに残されている場所や寺院が1ヵ所もない村が存在するなど影響が残っています。
王政復古の大号令で政治体制が天皇中心になったことだけではなく、日常生活にも影響が出ていました。
神道国教化については『神道国教化と廃仏毀釈』で詳しいことは取り上げたいと思います。
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