今回は徳川慶喜と巣鴨との関係について取り上げます。徳川慶喜と巣鴨との間に関係があるということで、14代将軍徳川家茂の将軍後見職に就任してから巣鴨に住むようになったと思いがちですが、違います。徳川慶喜は将軍に就任したとき二条城にいました。大政奉還をしたときも二条城にいました。この記事では、徳川慶喜の経歴を紹介してから、巣鴨に住んでいた頃の話について取り上げます。
徳川慶喜の経歴
『徳川慶喜の逸話を紹介!先生が教えない最後の将軍の素顔』によれば、1837年に水戸藩で生まれました。父は水戸藩主の徳川斉昭で、尊王攘夷派で有名でした。水戸藩は他の御三家とは異なり、尊皇の意識が強い藩で天皇家との結びつきが強かったといわれています。慶喜も天皇家との結びつきが強い環境で育ちました。
13代将軍徳川家定の将軍後継者争いに敗れ、謹慎生活を送りましたが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると政治の世界に復帰しました。将軍後見職として14代将軍徳川家茂を補佐しました。
14代将軍家茂が長州征伐の途中で病死すると、15代将軍に就任しました。15代将軍になると1年足らずで政権を朝廷に返上する大政奉還を行いました。大政奉還後、戊辰戦争が起こりましたが、朝廷に恭順の意思を示し、謹慎生活を送りました。謹慎生活を通して恭順の意思を示したことが認められ、徳川宗家が残ることになりました。慶喜は家督を譲り、静岡で隠居生活を送りました。
静岡で20年間の隠居生活を始めましたが、1897年に東京の巣鴨に移り住みました。東京に移り住むと旧江戸城内に参内して明治天皇に拝謁しました。東京に移り住んでから貴族院議員を務めましたが、議員を辞めてから隠居生活を再開しました。1913年に77歳で死亡しました。
徳川慶喜の巣鴨の屋敷
徳川慶喜は1897年から4年間貴族院議員として政治の舞台で活動しました。その4年間の議員生活において巣鴨を拠点としました。巣鴨の慶喜の屋敷跡は巣鴨駅の側にありましたが、その場所に石碑が立っています。説明板によれば、巣鴨の屋敷の庭に梅が植えられていたようです。町の人たちからは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていました。ケイキさんと慕われていたことから慶喜の人柄を知ることができます。1901年に貴族院議員を辞めると、巣鴨の屋敷から文京区小日向第六天町の高台の屋敷に移り住みました。巣鴨の屋敷近くは電車が通り過ぎていた交通の多い場所で、慶喜は騒音を嫌っていたといわれています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は巣鴨と徳川慶喜との関係について取り上げました。大政奉還後、20年間の静岡での隠居生活を経て、貴族院議員として政界に復帰しました。貴族院議員だった頃に巣鴨に住んでいたことが分かりました。
徳川慶喜は4年間住んでいました。地元の人々からケイキ様の梅屋敷として親しまれてきましたが、慶喜本人は電車の騒音を嫌って文京区の高台の屋敷に移り住みました。慶喜は病気で死亡する1913年まで文京区の屋敷に住みました。
現在、文京区の屋敷の大半は国際仏教学大学院大学となっています。この大学の正門には徳川慶喜の屋敷跡を示す石碑が立っています。アクセスについては東京メトロの最寄りの駅から徒歩圏内の場所にあります。有楽町線「江戸川橋駅」から徒歩10分、東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」から徒歩12分、東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園駅」から徒歩16分の場所です。
徳川慶喜は静岡の隠居先でケイキ様として人々から慕われていました。巣鴨の屋敷がケイキ様の梅屋敷と呼ばれていたことから、徳川慶喜は全国規模で「ケイキ様」で慕われていたのかもしれません。慶喜の人柄を知ることができます。
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