劉備は蜀(221年~263年)の初代皇帝です。史書では先主や昭烈皇帝と言いますが、劉備が有名なので、この記事では劉備で通します。
ところで読者の皆さんは劉備に対して、どのようなイメージを持っていますか。
おそらく皆さんのイメージは農業で汗水流して、一日の食事にも困る貧乏農民の姿だと思います。
ところが、案外違うのです。
そこで今回は劉備が黄巾の乱に参加するまでの経歴を暴きます。
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学費を出してもらっていた劉備
若い時の劉備はお金が無い貧乏人というイメージとは程遠いです。なぜ、そんなことが言えるのかというと、彼の親族関係にありました。
まず、親族からです。
皆さんのイメージだと劉備は父は早死にして、母と2人暮らしという感じだと思います。おそらくこのイメージは、マンガや小説の影響だと思います。たしかに劉備の父が早死にしたのは事実です。
ところが、劉備の親族は近くいたようです。それは以下の通りです。
(1)叔父(名前不明)
(2)劉元起←親族
(3)劉徳然←親族 劉元起の息子
劉元起はよく分からないのですけど、どうも劉備の後見人のような存在です。劉備が学者の盧植の塾に入る時は学費を出しています。しかも息子の劉徳然と同額を払ったのです。
盧植は当時では一級の学者です。現代で言うなら、東進ハイスクールの林先生に学ぶレベルです。
つまり、劉備は学費の提供を受けれるレベルなので、お金に困っていなかったと分かります。
遊ぶ金もあった劉備
もちろん、読者の皆さんの中には「親族から金を借りるぐらい困っていたのじゃないのか?」と疑問を持つ方もいるでしょう。そうとも言い切れません。
理由は劉備の趣味にあります。
劉備の若い時の趣味は(1)ドッグレース、(2)馬術、(3)音楽、(4)ファッションの4点です。
どれも金のかかる遊びばかりであり、農民らしさがゼロです。要するに劉備の正体は放蕩三昧のドラ息子です。
実際に盧植の塾でもマジメに勉強はしていなかったようです。とりあえず、箔をつけるために行っていたという感じがします。
本当にタダで劉備に軍資金をくれたのか?
劉備が黄巾の乱に出発する時に、中山の張平世と蘇双という商人に出会いました。この2人は劉備を見た時に、劉備が只者ではないと思って軍資金をタダでくれました。
この話は横山光輝氏の『三国志』にも記載されているので、マニアックな読者は記憶していると思います。疑問視するのは、この話が本当かどうかです。
なぜかと言うと、この当時の劉備は24歳です。24歳の若僧に、ベテラン商人が「どうぞ」と軍資金をタダで渡すと思いますか。そもそも何を期待して提供したのかも不明です。
結局劉備はそのまま黄巾の乱平定に出発していますし、後年に2人にお礼をした形跡がどこにもありません。また、正史『三国志』に注をたくさん付けている裴松之でさえも、この点にはノーコメントです。たぶん、本当に調べる史料が無かったのでしょう。
ちなみに中国文学者の高島俊夫氏は、劉備が子分と一緒に張平世を脅迫して金を奪ったと推測しています。
三国志ライター 晃の独り言
以上、劉備が黄巾の乱に参加するまでの経歴を簡単ですが紹介しました。実は、先ほど紹介した張平世と蘇双の話なのですけど、横山光輝氏も気になっていた形跡がありました。
後年、横山氏が三国志のファンブックを出版した時に、それが記載されていました。
内容は老齢になった劉備の所に張平世がやって来て、「あの時の軍資金をそろそろ返してください」と頼むifストーリーです。
現在、筆者はそのファンブックを所持していないのですけど、興味のある人は読んでみてください。
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)』2000年に改題)
・横山光輝『横山光輝三国志おもしろゼミナール』(希望コミックス 1984年)
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