夷陵の戦いにおける劉備の大敗は避けようがなかったの?臥竜鳳雛が揃っていたら?

2019年5月21日


 

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ブチギレる劉備

 

三国志(さんごくし)の物語の後半に起こる一大転機が、夷陵の戦い(いりょうのたたかい)。この戦いによって三国のパワーバランスが崩れた上に、直後に劉備(りゅうび)が死亡することで、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)への主人公交代が発生します。

 

夷陵の戦いで負ける劉備

 

(しょく)が衰退するきっかけとなった手痛い大敗だったというのみならず、()()(しょく)の三国のうちの呉と蜀の血みどろの決戦となった為、結果としては魏をおおいに利することにもなってしまいました。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

戦いの原因となったのは、劉備本人が益州(えきしゅう)に入っている間、荊州(けいしゅう)の守りを任せていた関羽(かんう)()に討ち取られたこと。荊州(けいしゅう)という土地をめぐる攻防であると同時に、劉備個人にとっては、関羽の弔い合戦という意味もありました。

 

それゆえどうもこの戦いに出る時の劉備は、いつになく強引で、聞く耳を持たない印象となってしまっています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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周囲がいくら止めても突き進んだ劉備の判断は正しかったのか?

孔明

 

そもそも重臣の諸葛亮孔明が出兵に反対。

ベテランの参謀格の将たちからも、強引な出兵に懐疑的な声が出ている状況でした。

 

蜀の劉備

 

ですが劉備は、若いころの寛容な彼からは人が変わったかのように、部下の進言に耳を貸しません。

「呉と対決するにしても、もう少し時期を待ってからでは?」という穏健な提案すら跳ねのけてしまいます。

 

劉備

 

劉備は結局、諸葛亮孔明に益州の守りを任せて遠征を開始します。

 

龐統

 

ここで孔明と分担で動かざるを得ず、前線で劉備が自分で指揮を執る状態になったところに、蜀の人材不足を感じます。

「誰か劉備についてやる人材はいないのか? たとえば龐統が生き残っていれば、、、」という想いが読者の心をよぎる瞬間ではないでしょうか。

 

陸遜

 

結果、劉備軍は陸遜(りくそん)の仕掛けた壮大な火攻めに完敗。

「白眉」の故事で有名な馬良をはじめ、多くの人材を討ち取られた上に、数万規模の死者を出すという、劉備のキャリアでも最大の汚点を作ってしまったのでした。

 

朱然によって捕まる関羽

 

当然思うことは、「ムリをしてでも関羽の仇を討つことが正義」という劉備の判断は、やはり間違っていたのではないか?というところでしょう。

 

 

 

人口データを見ると、劉備が荊州にこだわったこと自体は仕方がないところもある

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

この戦いで奪い合いとなった荊州という土地ですが、どのような土地なのか?

 

大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる 三国志 [三国志徹底マスター]』(西東社)という本には、三国時代の各エリアの人口の数値が入っているので、これを参考にしましょう。

 

このデータによると、荊州の人口は626万人。

蜀が拠点としていた益州が724万人で、

呉が拠点としていた揚州が433万人、とされています。

 

三国志の地図

 

これを前提として計算するならば、劉備が荊州をとれば、益州+荊州で人口1000万人の大国が出現。

孫権が荊州をとっても、揚州+荊州で人口1000万人の大国が出現。

どちらの勢力も、荊州は是が非でもおさえておきたい土地であったことは間違いありません。

 

ちなみに魏のほうは、治めていた土地が広すぎて計算が難しいのですが、おそらく2000万~3000万の人口をかかえていた規模と思われます。

蜀も呉も、「荊州をとらなければ、魏にかないっこなくなり、ほとんど詰み」という焦りがあったはずです。

「荊州を奪われてしまっては話にならないから、なんとしても奪還するのだ」という劉備の焦燥は、それはそれで理屈は通っているのです。

 

 

 

まとめ:それでも戦略の王道でいうならば、もっとやりようはなかったのか?

張良と劉邦が楚漢戦争のゲームをプレイ

 

それにしても、ボードゲームでもトランプでも、1位のプレーヤーが2位3位を引き離し始めている場合、2位と3位は何があっても足を引っ張りあってはいけないというのは、常道中の常道ではないでしょうか?

 

魏がトップランナーになり始めているこの大事な時期、呉と蜀がつぶしあったこと自体、取り返しのつかないことだったのではないでしょうか?

 

「その鉄則を先に破ってきたのは孫権だ」となるかもしれませんが、そんなことはいってられない。

もし劉備が関羽の死を乗り越えてあくまで魏との戦いに集中していたら、その後の展開はそうとう変わっていたはずなのに、とは、思ってしまうところです。

 

でもいっぽうで、あれだけ普段から「義理人情」を強調している劉備が、関羽が殺されたことに逆上しなければ、それはそれで評判に傷がついたところですし。

 

 

三国志ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO
結局、「夷陵の戦いがなければ」という想いは、「関羽が敗北さえしなければ」という想いになり、さらに関羽の敗北の遠因をたどれば、「荊州の守りについて関羽に誰か優秀な軍師がついていれば」という想いになってしまうわけで。

 

たとえば、龐統が死んでおらず、この時期に臥竜鳳雛がちゃんとそろっていれば!

 

劉備と龐統のコンビが益州をおさえ、関羽と孔明のコンビが荊州を守っていれば、蜀は見事に安泰、呉も手が出せない状況になっていたはず、などと、夢見てしまうのでした。

 

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夷陵の戦い

 

【動画】孫権が暴君化した理由

 

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YASHIRO

YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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