昔々、欧州は貧しくアジアに経済的に差があったというのは、多くの人が世界史で習う事です。
その後、貧しかった西洋では、大航海時代を経て資本が蓄積され、産業革命の呼び水になり、帝国主義的な侵略によって、
アジアを凌駕したと考えられてきました。
また、一方で、アジアは人口と資源に恵まれながら、硬直した官僚機構の下、人民は搾取され、非合理的な経済運営がなされた結果、
産業革命の起きようもなく欧州に追い抜かれ没落したというヨーロッパ中心史観が展開されてきました。
合理の欧州と非合理のアジア、でもこれは事実なのでしょうか?
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この記事の目次
高価で粗雑な商品しかなかった欧州
第一の問題として、どうして欧州は貧しかったのでしょうか?
それは、欧州が人口に比較して土地が広大で人口密度が低かったためです。
欧州ではモンゴルの侵入以後、度々ペストが発生するなどして人口が激減し、労働者の価値は高いモノになりました。
その為、一人辺りの労働者に支払う賃金は高くなり、これが商品の価格にすべて跳ね返りました。
ヨーロッパの産物は、この為、価格が高い上に質が悪く、中国やインドのようなアジアの物産には全く対抗できなかったのです。
実際、15世紀以降、欧州がインドや中国に売っていた産物とは、南アメリカで採掘された金や銀のような通貨であり、
自国の産物はまるで勝負にならなかった事が分かっています。
欧州は、アメリカの金や銀で中国の絹織物や陶磁器、インドの綿織物を購入して、これを転売する形しか取れず
決算貨幣である金も銀も、インド、そして中国に吸い上げられていき、欧州は慢性的な貿易赤字に悩む事になります。
低コストで品質が高い商品を生み出したアジア
欧州とは逆に、アジア、特に中国とインドでは、元々、人口密度が高い状態にありました。
その為、アジアでは伝統的に強大な王朝が君臨する事になり灌漑や治水工事、道路網の拡充などのライフラインの整備が
大規模かつ継続的に行われる事になりました。
こうして、上昇した生産性に加え、大きな人口により、経営者は比較的に大規模な工房を安いコストで運営できました。
大勢の従業員を抱えているので、ノウハウの蓄積も早く、熟練工が大勢発生し、商品のクオリティも上昇します。
こうして、アジアの産物は品質が高く、コストが安くなり、欧州の産物では太刀打ちが出来なくなったのです。
実に、18世紀の後半まで欧州の産物はアジアでは売れず、ただ、欧州の領域と植民州になった南北アメリカ大陸や、
アフリカ大陸で流通するだけでした。
長所と短所が入れ替わっていくアジア
しかし、西暦1815年を境に、欧州とアジアの地位は、完全に入れ替わってしまいます。
それは、まず、アジアの没落という形で出現しました。
ヨーロッパからの金と銀を得て、人口を増やし商品の生産力を強化したアジアでしたが、奇しくも、その人口増加がアジアの首を締める事になります。
生産人口が増加する一方で人件費がどんどん安くなり富裕層と貧困層の所得の差が拡大の一途をたどったのです。
貧困層は毎日の生活も苦しくなり、徴税の基礎を為していた農村で没落が発生、農村人口は都市に流入して日雇い労働者になっていきます。
これにより、ただでさえ安かった労働者の人件費は、さらに安くなっていきました。
国家歳入の不足により、政府は徴税を強化していき、より貧困層は追い詰められ、経済は停滞し社会不安が急増。
各地で反乱や暴動が起きるようになります。
王朝は治安維持にも出費を迫られて、インフラ整備にも予算を回せなくなり、堤防や灌漑は使用不能になり自然災害も頻発していきました。
こうして、質がよく安価だったアジアの産物は、国際競争力を失っていったのです。
アジアに勝つ為の機械化が商品の質を上げた欧州
翻って欧州を見ていきましょう。
人口密度が低く労働者のコストが高いために、粗悪で高い商品しか作れなかった欧州では、労働力節約の為に機械への設備投資が始まります。
その資金は、金や銀を媒介したアジアやアフリカとの交易、さらに、植民地プランテーションで得た砂糖、コーヒー、天然ゴム、
綿花、タバコなどの商品の利益が当てられました。
欧州のさしあたってのライバルは、インドの綿織物でした。その為、産業革命は自動織機の開発から始まったのです。
ヨーロッパで産業革命が成功したのと、アジアの没落は、ほとんどタイミングが同じでした。
アジアの商品を質でもコストでも凌駕した欧州の産物は、逆にアジアへと大量に流れ込んでいきます。
ここに至って、欧州からアジアへと流れ込んでいた金と銀は逆流し、アジアの富は欧州に吸い上げられるのです。
アジアでは合理的な判断から産業革命を起さなかった
ここから分かってくるのは、欧州が合理的であったために世界の覇者になったのではなく、
同時にアジアが非合理的な為に没落していったのではないという事実です。
アジアでは労働者は豊富にいて、賃金は安く、労働力の節約の為に機械化、つまり産業革命を起こす必要がありませんでした。
そんな事をして製造コストを下げるよりも、労働者の賃金を下げる方がはるかにコストが掛からず簡単で合理的だったのです。
しかし、賃金の切り下げが極限まで到達した結果、その日生きていくのがやっとの貧困層が拡大、社会は不安定になり
税収が低下した結果として、王朝は弱体化します。
こうして、18世紀後半には、アジアの強国だったインドがイギリスの支配下にはいる事になります。
最後はアヘンで中国を市場化
こうして、資本を蓄積した欧州は、アジアの最期のフロンティアとして中国に目をつけ、産業革命で生産した綿織物を売り込もうとします。
しかし、工業製品になった綿織物さえ、18世紀末の中国の絹織物や綿織物に品質とコストで敵わずに撤退します。
一方で、イギリスは中国から一方的に大量の茶を輸入しておりその貿易赤字に悩むようになります。
そこで、イギリスは、インドのベンガル地方で栽培したアヘンを売りつけました。
インドと同じく豊富な労働力に依拠して賃下げによって商品の価値を維持していた中国でも貧困層は拡大しており、アヘンは爆発的に流行。
中国はこれを実力で排除しようとし1840年、アヘン戦争が勃発しました。
中国から遥かに遠いイギリスですが、インドを植民地化していた事で、巨大な軍事力を中国に向ける事が可能になりました。
事実、アヘン戦争に従軍したイギリス兵の9割はインド人であり、インドを得る事で、初めてイギリスの中国侵略は可能になりました。
こうして日本を除き、ヨーロッパのアジア経済支配は完成したのです。
世界史ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?
一般的に教科書で習う、合理的な欧州、非合理的なアジア、科学を信奉した先進的なヨーロッパと迷信の底に沈んだアジアのような、
先入観は、実際には神話にすぎないのかも知れません。
実際、一度は欧州にやり込められたアジアの二大強国、中国とインドは安い労働力を背景に、欧州の機械化文明を加える事で、
逆に欧州を凌駕して驚異的な経済成長を遂げてきています。
元々、世界経済を牽引した時間は、アジアの方が遥かに長いのであり再び、歴史が反転し、アジアの時代がやってくるのは、
不思議でも奇妙でもない事なのです。
参考文献:リオリエント:アジア時代のグローバルエコノミー
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