三国志末期の武将たちの一人に、魏延がいることは皆さんもご存知の通りです。ほとんど戦力が枯渇した蜀に残った数少ない武将の一人ですが、この魏延には不忠の将としてのイメージがあるという人も少なくない御様子。
ではこの不忠の将のイメージはどこから来たのか?魏延って忠誠心あるの?ないの?ということに今回は注目しつつ、魏延についてお話したいと思います。
魏延の不忠の将のイメージは三国志演義のせいか!?
まず魏延の不忠の将のイメージ、これを確立させたのは三国志演義ではないかと思います。魏延が劉備に降った時に諸葛亮が、今まで魏延が何度も主を変えたこと、そして反骨の相について話します。
このことから諸葛亮と魏延は不仲になり、後々対立に繋がっていくのが三国志演義のポイントです。最終的に魏延は馬岱に「魏に降ろうか」とも言い出すので、これが魏延に忠誠心が薄い、というイメージを付けてしまったのではないでしょうか。
しかし三国志、正史に関しては特に諸葛亮と魏延は不仲ではありません。
そりが合わなかったのはあるかと思いますが、自分の策を反対されても諸葛亮の北伐に従っていますし、諸葛亮も魏延を重用し続けました。正史ではどちらかというと楊儀との対立が目立ちますね。さて、そんな魏延の不忠の将というイメージの一つ「度々主君を変えていた」に関してもお話しましょう。
度々仕える相手を変えていた魏延
まず「度々主君を変えていた」に関しては、演義の創作です。三国志演義では劉表、蔡瑁、韓玄と主君を変え、最後に劉備の元にやってきました。正史では最終的に劉備に仕えたのは事実ですが、それまでの魏延が何をしていたのかは良く分かっていないのです。
また三国志演義の方では魏延は韓玄から離反したことを諸葛亮が咎めていますが、そこで魏延ばかりが非難されるのはいささか納得がいきません。この魏延の話の直前にある話ですが、武陵でキョウ志という人物が出てきます。
彼は敗北して逃げ戻ってきた主君を「自分の意見を聞かずに兵士を死なせた」と射殺、その首を持って降伏……という、ある意味魏延並みかそれ以上なことをしているのですが、なぜかこの人物に関してはノータッチ。そもそも劉備自体も色々な人のところに身を寄せては……を繰り返していたので、魏延ばかりが不義不忠と謗られる理由はありません。
なので筆者としては、これだけで魏延が不忠の将とは言えないと思います。
魏延と劉備との出会いと、その厚遇
ここで魏延と劉備についても触れていきましょう。
諸葛亮はともかく、劉備は正史でも三国志演義でも魏延を厚遇しています。これは正史の方の話ですが、劉備が漢中王に即位した際に魏延は漢中太守に任命されました。漢中が大事なのは当然のこと、ここを魏延に任せたことを皆が驚いたと言われています。
実際にこの時は張飛がこの役目に就くだろうと思われていたので、ここに魏延を抜擢する劉備の魏延への信頼の厚さが分かります。ちなみに魏延は「善養士卒」と言われていたので、士官を育成する才能があったと劉備に判断されたのかもしれません。
魏延に忠誠心はあったのか……?
さて最後になりましたが、筆者は魏延について「劉備への忠誠心はとても厚かった」と思っています。
前述したように劉備は魏延の才を見抜き、そして厚遇しました。これは魏延からすれば初めて自分を認めてくれた、という人物に巡り合えた感動ものだったのではないでしょうか。そしてそれは劉備亡き後も、彼が魏に降ることなく蜀に居続けたことからも分かります。
そんな彼でも、どうしても楊儀との諍いが大きかった。しかし楊儀と対立しても、蜀に背いた訳ではありません。離反した訳でもなく、対立して、その最期を迎えます。魏延はただ、それはとても武骨で、不器用なものでしかなかったのかもしれないけれど、劉備の遺した蜀を守るために足掻いていたのではないでしょうか。
三国志ライター センのひとりごと
今回は魏延について色々と調べてみて、更に魏延という武将について考察を深めてみました。魏延だけでなく、彼の周囲の人たちとの人間関係もまた、魏延の生涯において重要だったとも思わされました。
知れば知るほど面白い武将でもあるので、ぜひ三国志演義のイメージに捕らわれずに魏延という武将を知って欲しいですね。
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