後漢王朝は光武帝劉秀が皇帝となってから数百年間天下を保持します。その間皇帝の親戚である劉氏は各地の王に取り立てられます。三国志の時代にも前漢や後漢時代に王となった、劉氏の子孫が多数生き延びており、劉表(りゅうひょう)も前漢の皇帝である景帝の息子・魯王(ろおう)劉余(りゅうよ)の子孫で、名門として敬われてきました。彼は後漢時代「八俊」と言われるほど優秀な人物で、荊州刺史に任命され荊州に赴きます。彼はその後20年間荊州を統治。肥沃な土地である荊州を有し、膨大な兵力を持ち、優れた人材も多くいた劉表でしたが、乱世を制する事はできませんでした。
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荊州刺史に任命される
劉表は身長が180㎝もあり、顔もかなりカッコ良く、威厳に満ちていたそうです。彼は大将軍何進に取り立てられ、霊帝が亡くなると空白であった荊州刺史に任命されます。
反乱の多い荊州に赴く
劉表は荊州へ赴きます。この当時の荊州は土地の有力者が反乱を起こし、荒れておりました。そのため劉表は荊州の有力者である蒯良・蒯越兄弟や蔡瑁達と会いどうすればいいか相談します。蒯良は劉表の相談に対して「仁義と信義を明らかにすれば、おのずと民衆からの支持を得る事が出来ます。」と説きます。また蒯越と蔡瑁は「反乱を起こしている賊に、知り合いがいますので、彼らを誘って賊の首謀者を斬れば、反乱は静まりましょう」と提案。
蒯越と蔡瑁のアドバイスを取り入れる
劉表はまず蒯越と蔡瑁のアドバイスに従い、反乱軍の首謀者たちを宴会に誘います。反乱を起こしている賊の首謀者達は劉表の誘いに乗り、宴会にやってきます。劉表は宴会にやってきた賊の首謀者達を兵に捕縛させ、処断します。その後反乱軍の兵士達を降伏させ、反乱を鎮定します。
袁紹と結ぶ
董卓(とうたく)は皇帝を擁し、好きなように政治を行うと、各地の実力者たちは兵を出し合い董卓討伐軍を結成。劉表も兵を率いて参加します。この連合軍の盟主に名門袁家の当主袁紹(えんしょう)が就任。連合軍は董卓討伐に軍を進めますが、思うように進まず、結局何の成果を上げられず、解散してしまいます。この時劉表は同じ名門である袁紹と同盟します。しかし袁紹を嫌っていた袁術は劉表が袁紹と組んだことを知ります。袁術は連合軍解散後、劉表を討伐するため自らの陣営に属していた孫堅を劉表討伐に向かわせます。
江東の虎・孫堅との戦い
劉表は荊州に戻るとすぐに孫堅(そんけん)から攻撃を受けます。彼は黄祖(こうそ)に孫堅迎撃を命じますが、孫堅軍攻撃に敗れてしまいます。劉表は黄祖が敗走して襄陽に戻ってくると「私はここで籠城するから、外から孫堅を攻撃せよ。」と命じ、遊軍として出撃させます。その後襄陽は孫堅軍の猛攻を受けますが、劉表は必死に耐え続けます。遊軍として襄陽城外に居た黄祖は、兵を集め孫堅軍に攻撃を仕掛けますが、再度敗れ、襄陽近辺の山中へ逃走。孫堅は黄祖軍へ猛追撃を行い、山中へ入っていきます。この時孫堅は黄祖軍が放った流れ矢に当たって、亡くなってしまいます。孫堅が亡くなった事で孫堅軍は軍をまとめ撤退し、襄陽の包囲は解かれる事になります。
荊州全域を手に入れる
劉表は孫堅を撃退した後、荊州全域で独立している小軍閥の討伐に向かいます。劉表は小軍閥を一年間かけて討伐。こうして荊州全域を手中に収め、10万以上の兵力を有する南の実力者として成長します。
内政に力を入れる
劉表が荊州全域を手に入れた頃、中原と言われる黄河流域は大いに乱れていました。北は袁紹と公孫瓚(こうそんさん)の対立。南は曹操や袁術、陶謙らが熾烈な争いを行っていました。劉表は中原の戦乱に参加せず、内政に力を入れます。彼は教育を奨励し、学校を立てます。また流民が出ないように田畑を耕す事で、肥沃な土地を作り上げ、各地から名士や流民が大勢やってきて、荊州は大いに栄える事になります。
中立が禍になる
曹操と袁紹はついに官渡で決戦を行います。劉表は袁紹の味方に付いていたため、彼から曹操の本拠地を攻撃するよう要請が来ます。しかし劉表はこの要請を受け、少しの兵を前線の新野に送り、南から曹操に圧力をかける事に終始して、実際に攻撃を行いませんでした。劉表の中途半端な行動を見た家臣らは「袁紹と曹操が官渡で決戦を繰り広げております。今こそ彼らの隙をついて北上すれば、易々と両雄に勝つことができるでしょう。」と進言。しかし劉表は彼らの進言を取り上げる事をせず、二人の戦いを静かに見守ります。
天下の大徳・劉玄徳の進言
袁紹の元に居て不遇の時間を過ごしてきた劉備は、袁紹の元から離れ劉表に保護を要請します。彼は快く劉備を迎え入れ、新野を与えます。劉表は劉備が困らないように色々と便宜を図り、何かあると劉備を呼び相談します。こうして劉備を厚遇します。ある日いつものように劉備を呼び、政治について相談しようとします。この時劉備は劉表に「劉表様。今曹操が北方の異民族である鳥桓族討伐に向かっており、本拠である許(きょ)はがら空きです。今こそ曹操を討伐する最大の好機です。私に兵を貸してくれれば、許を必ず陥落させて見せます。」と提案します。しかしここの進言に対しても劉表は頷かず、苦笑いをします。
その後曹操が鳥桓族討伐に成功し戻ってくると、彼は劉備を呼び
「君の言う通り、曹操を攻めればよかった」と後悔を口にします。
劉表の最後
こうして劉表は20年間以上、荊州を統治して戦乱を招き入れず、平和な時間を出現させる事に成功します。しかし中原の戦乱は曹操の手によって平定され、荊州にも戦乱が及ぶことになります。曹操は北の袁紹の勢力を完全に駆逐すると、南に目を向け、荊州へ侵攻を開始。劉表はこの時病にかかり、重病でした。彼は後継者である劉琮(りゅうそう)に決めますが、彼に曹操軍への対処などを指示せず、亡くなってしまいます。その後劉琮は降伏し、新野に居た劉備は逃走。劉琮が降伏した後荊州は、魏・蜀・呉の三国が激しい争いを行った事によって荒廃し、荊州を栄えさせた劉表の努力はすべて水の泡になってしまうのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
正史「三国志」の作者陳寿は劉表をこのように評価しています。「劉表は威厳のある風貌で名声も高く名を広く知られていた。そのおかげで肥沃な土地を得る事に成功するが、疑い深く、有能な人材がいても使いこなせない。このような人物がトップに立っていれば国が滅びても仕方がない。」と酷評しています。確かに劉備や家臣らの進言に従い、南から曹操を攻撃していれば、ほぼ間違いなく曹操は滅び、劉表が曹操に代わって天下第一の勢力を持っていたかもしれません。そうすればかなり違った未来があったにも関わらず、袁紹と曹操の戦いを何もせず傍観した事が原因で、自分の領地を手放すことになってしまうのです。非常に残念な劉氏一門の一人といえるでしょう。
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