三国志の時代で、最も求められ他能力は何でしょうか?武力?知力?それとも……色々な意見があると思いますが、筆者は「徳」であると思います。
もちろん「いきなり『徳』とか意味不明なこと言われても……」と思う方もいるかもしれませんね。そこで今回はこの「徳」の説明と合わせて「仁徳の人」と三国志演義で描かれている劉備の徳についても解説をしていきたいと思います。
「徳」ってなぁに?
さてまずは「徳」について、かなりざっくりとした説明をしていきましょう。
この「徳」というのは宗教観点が強いものになりますが、目に見えるものではありません。個々の能力とでも言うべき、敢えて同じようなものを上げるとするなら実績、名声、カリスマ、出自もだいぶこの「徳」に影響を与えるものとなります。皇帝はこの「徳」を多く持っているからこそ皇帝となっていました。
何故なら「徳」がある人が国を治めることで国が繁栄するからです。しかし逆に皇帝の「徳」が下がってくると国が乱れてしまいます。そして黄巾の乱より少し前から、国は乱れてきていました。つまり漢王朝の皇帝の「徳」が低下していると当時の人々からは思われていたのです。
ではこの「徳」が重要だと思われていたことが分かる、その出来事を説明しましょう。
「徳」が重要なことが分かる出来事
一番分かりやすいのが魏の曹丕が文帝となった時でしょう。漢王朝の「徳」が低下して国が乱れていく中、曹丕の父である曹操は乱を治め、国を盛り立ててきました。
つまり曹操の「徳」が上がってきていたんですね。この「徳」は跡継ぎに引き継がれていきます。だから王朝の皇帝は跡継ぎがそのまま帝位に付けるという世襲制が成り立つのです。
だから曹丕の「徳」も自然と高いものに見られていきますが、それでも曹丕は禅譲という形をとって皇帝の位を譲られることになりました。「無理やり奪い取った訳じゃないよ!」アピールですね。
しかし曹操の漢王朝への功績を考えれば、民衆から見てもかなり納得のいく措置と言えます。
劉備の徳はどうだったのか?
ここで注目したいのが劉備の徳。三国志演義では仁徳の人という扱いを受ける劉備の徳はどうだったのか?
お気づきの三国志ファンの方も多いと思います。「劉備は漢皇帝名乗ったじゃん!」……そう、劉備も皇帝を名乗っています。
じゃあ劉備の徳もとてつもなく高かったのか、というとそうとは言い切れないのです。というのも劉備が漢皇帝を名乗って許されたのは「献帝が曹丕によって殺されて帝位を奪われたから」という理由があるからです。
しかし知っての通り献帝は殺されてはいません。背後にどのような理由があったにせよ、禅譲はあくまで和合の元で行われました。
この時になぜか「蜀では」「献帝は殺されて帝位を奪われた」ということになってしまっていましたが、当時の蜀の存在理由にも等しい「漢王朝の復興」からすればこれはこうせざるをえなかったのではないか、と筆者は思っています。
でなければ漢王朝と共に曹丕の下につかざるを得なくなりますからね。
ともあれ劉備の漢皇帝も反逆者が出た訳ではないので、能力的に見ても「徳」的に見ても、周囲からは劉備にも「徳」があると認められたのではないでしょうか。事前に漢中王を名乗っていたことを考えると、ここでも劉備の運の良さを感じさせられます。
三国志演義のように「徳」に満ち溢れてはいないけれど、確かに「徳」を感じさせる人物……それが筆者の劉備観です。
「徳」がないとこうなっちゃうとても良い例
因みに「徳」がないのに皇帝を名乗るとどうなるか、に関しては袁術が分かりやすい例ですね。
袁術は皇帝を名乗ってしまいましたが、そのラストは悲惨なものです。周囲から一斉に顰蹙と反感をかってしまい、。演義では民衆からも酷く嫌われたように描かれるほどです。これを見ても、当時の「徳」を民衆がどう見ていたのか、それを感じることができますね。
目に見えない曖昧なものであっても、この当時「徳」は名君として必要不可欠なものだったのです。
三国志ライター センのひとりごと
今回はちょっと趣向を変え「徳」について解説をしてみました。
曖昧なものですがこの観点から三国志を見ていくと、ここでどうしてこういう行動をしたのか、どうしてみんなこう考えるのかが影響されていて、別側面からも三国志を楽しむことができます。敢えて劉備を引き合いに出しましたが、皆さんもお気に入りの武将の「徳」について考えて見て下さいね。
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