司馬懿が曹操の辟召に応じなかったのは有名ですが、実は司馬懿の兄の司馬朗も、曹操が196年に司空掾属にして幕僚にした後、病気を理由に職を辞しています。
その後の司馬朗は堂陽県長になり、元城令に還り、その後丞相手簿になりました。司馬懿にしても司馬朗にしても、司馬氏は曹操が嫌いで何とか理由をつけて離れようとしていると感じるのはkawausoだけでしょうか?
司馬氏は儒教の復興を掲げて、井田制、五等爵の復活、諸侯王の軍備増強を主張しますがこれは、皇帝独裁を目指す始皇帝以来の中央集権を進めたい曹操と正反対です。そして、ここからは、隠された司馬氏の野望が見えてきます。司馬氏は、そもそも始皇帝以来の中央集権が嫌いで、中華を始皇帝以前の周の封建制に戻そうとしていたのではないでしょうか?
※この記事はkawausoの仮説です。
この記事の目次
司馬朗は周制の復活を唱えた!
曹操に司馬懿より、12年程早く仕えた司馬朗は、丞相手簿になった後以下のような提言をしています。
朗以為天下土崩之勢 由秦滅五等之制 而郡國無蒐狩習戰之備故也
今雖五等未可復行 可令州郡並置兵 外備四夷 内威不軌 於策為長
又以為宜復井田 往者以民各有累世之業 難中奪之、是以至今
今承大亂之後 民人分散 土業無主 皆為公田、宜及此時復之
議雖未施行 然州郡領兵、朗本意也
正史三国志魏書 司馬朗伝
これは、どういう内容かと言うと司馬朗が言うには、この世の秩序の混乱は秦が五等爵を廃止した事と同時に郡国に兵力の備えが不十分であるためだと説き、五等爵の復活はまだ時期尚早であるとしても、郡国の兵力を強化して異民族に対抗し領国内の不穏分子にも睨みを効かせるべきとしています。同時に司馬朗は周の時代の井田制の復活を唱えています。
井田制とは、周公旦が整備したと言われる土地制度で井の形に田圃を九等分し中央の一つを公田として、8つの家族に協力して耕させて租税とし、周囲の8つの田は私田としてそれぞれの家族の生活に充てるというものです。
つまり司馬朗は、周の時代の民は、井田によってそれぞれ生業を全うして奪うのが難しいので安定して治まっていたが、現在は戦乱で本来は耕せる土地は無主になっている為流浪している人民に供給し、再び井田法を復活させるべしと説いたのです。
ところが、民屯と軍屯を生産力の拠り所にしている曹操は井田制を却下、五等爵についても復活させてはいません。
※但し曹魏建国時に、曹丕が秦漢の二十等爵を廃止して擬古的に五等爵を復活。
ただ、郡国に兵を持たせる事については、戦乱の都合上で仕方なく許したのでそれだけでも司馬朗は満足していたという趣旨なのです。
こうしてみると、司馬朗は孔子以来の伝統的な儒教官僚でキングダム以前の周の封建制を志向している復古的な人物であり、秦の中央集権制を目標とする曹操とは、相容れない人物であったという事が分かります。
西晋が王族の力を強化したのは封建制への土台固め
三国志の魏の凋落の解説には曹丕は、曹植と後継者争いを演じた苦い教訓から身内を信じず王族に小さな力しか与えなかったので、司馬一族によるクーデターを阻止する事は出来なかった。司馬氏は、曹魏を教訓に、王族に大きな力を与える事で防波堤にして宗室を守ろうとした。
このような説明がよくなされますが、それは半分しか正解ではない気がします。司馬氏は、本当は周の武王が殷の紂王を滅ぼした後に、功臣や王族を各地の王に封じたように、王族を諸侯王にして、自治を任せ、晋を周王室の再来と考えたのではないでしょうか?
始皇帝以来の儒教に逆行する中央集権制を押しとどめて、孔子が夢見た理想の周王朝を現在に樹立するのが司馬氏の悲願であり、だからこそ曹魏が見向きもしなかった井田制を復活させて民屯を無くし本格的な封建制への土台固めをしたのです。
司馬朗は董卓に味方していた?
そもそも、司馬朗をTOPとする司馬氏は、袁紹の反董卓連合軍を認めず董卓が擁した献帝を支持した疑惑があります。反董卓連合軍を認めない以上、もちろん、そこに参加した曹操も認めないでしょう。司馬朗と司馬懿が同じく病気で、一度は曹操に仕えるのを拒否したのも決して偶然の一致ではないように思うのです。では、ここで司馬朗が父の司馬防に、董卓から逃れる為に一族を纏め故郷に帰るように命じられた時に起きたとされる事件を見てみましょう。
董卓への言い訳がなんだかちぐはく
計画は秘密裏に進みますが、それをかぎつけて董卓に讒言する人間がいて、董卓は怒り司馬朗を呼び出して言います。
「卿は我が亡き息子と同じ年だ、もう少しで背かれる所だった」
これは、明らかに司馬朗が逃亡しようとしていたと確信したモノの言い方です。ところが、その後の司馬朗の言い逃れは、なんだかチグハグなのです。
「明公は、高い徳を持って乱世に遭遇し汚らわしい貪官汚吏を駆逐し、広く賢人を登用しておられます。
これは、ひとえに己を殺して真心から行っている事であり、太平の世を興そうとしているのです。
その徳は増々盛んで、業績は著しいのに、どういうわけか兵乱は毎日あり、州郡は混乱して煮えたぎり、
領内では民は生業を落ち着いて行えずに遂には、住処と資産を捨てて逃げ散ってしまっています。
四関が禁を設けて、刑罰は重きを加えているのに、なお混乱は止みません。
願わくば明公、よく世間を見てもっと思慮深くなって下さい。そうすれば、その功名は日月と並び、
伊尹、周公(古代の聖人)でも及ばないでしょう」
このように言われた董卓は、「実は、私もそう悟った所だ、君の言う事は有意義だな」と語ったとあります。
ですが、当初このガキ騙したな!と怒り、司馬朗を呼びつけたのに司馬朗が董卓を持ち上げるような、或いは今後の方針を示したような弁明をすると「実は、私もそう悟っていたのだ、有意義な発言サンキュ!」と解答する。いくらなんでも、董卓おっちょこ度が過ぎる気がします。
実は董卓の言った、卿與吾亡兒同歳 幾大相負とは、「卿は我が亡き息子と同じ年だ、もう少しで背かれる所だった」ではなく、幾大相負の相負とは「負託」の意味であって、「卿は我が亡き息子と同じ年だ、君には少なからず期待しておったのだぞ」という名残惜しい気持ちを言葉にしたものとも受け取れます。
これだと董卓は、讒言を真に受けたのではなく、「ええー帰っちゃうのォ、寂しくなるなぁ」と名残惜しくなったと考える事も出来、司馬一族が元々は反董卓ではなかったその可能性の一端が見えます。
ただ、晋の官僚だった陳寿には、悪逆非道な董卓と司馬氏が共闘関係にあった事があるとは死んでも書けません。そこで、敢えてちぐはくな書き方をして後世の人に察してもらおうとしたかも知れないのです。
反董卓連合軍に故郷を蹂躙される前に逃げよ!
そのまま董卓の陣営に居続けた司馬朗ですが、やはり董卓は人望がないと見切り、道連れになる事を恐れて逃亡を決意します。今度は讒言されないように董卓の周辺に賄賂をばらまいて見事に長安を脱出、そして、故郷の河内郡温県に帰ると、一族の古老に言いました。
「董卓は天道に逆らうから、間もなく恨みを抱いた者が義兵を起すだろう。この土地は洛陽に近いし、洛陽の東には成皋があるし、北には大河がある。もし義兵が洛陽を落とせなかったら、義兵は必ずここに駐屯し仲間割れを起し四分五裂になるかもしれない。
そうなれば乱兵が土地を蹂躙し紛争の巷になり安全は保てない。それよりは、まだ道が通じている間に黎陽営に入るのが得策だ。黎陽には五営の兵がいて趙威孫が統率している。趙は古い親戚だし、立て籠もって天下の趨勢を見るのにうってつけ董卓と義兵の戦いを見て、どちらにつくか決めても遅くはない」
ところが故郷の古老は温県を懐かしがり、同意しませんでした。司馬朗は、やむなく一緒についてきた趙咨と黎陽に行きました。それから数か月で、この河内は反董卓連合軍の根拠地になり戦線は膠着、兵士の略奪殺人が相次ぎ人民の半数が死にます。
あれ?説得したけど、古老が頑迷固陋で言う事を聞かず自分の家族だけを引き連れて、一族が虐殺されるというパターンなんだか荀彧にそっくりです。
ここで注意すべきは、司馬朗は董卓を見限ったとはいえ、反董卓連合軍についたわけではなく、どちらかと言うと反董卓連合軍には、迷惑しているというような口ぶりである事です。
それから黎陽営ですが、洛陽の守りという性質上、董卓が反董卓派を重要なポストにつけたとも思えず、この段階では親董卓派が駐屯したと考えられます。姻戚の趙威孫も、親董卓派だったのかも知れません。ただ、間もなく趙威孫は配置換えになったようです。
それからしばらく、司馬朗の消息は不明ですが、反董卓連合軍が意見対立から空中分解して軍が解散すると、荒廃した温県に戻り、生き残った一族を収容し、困窮した者には食糧を分け与えるなどしています。
そして、呂布と曹操が激闘を繰り広げていた大飢饉の時期にも、決して学問は辞めてはならないと子弟に命じて耐えしのぎ196年、曹操が献帝を迎えて、司空に就任すると辟召して司空掾属としたのです。ところが、その後間もなく病と称して官を辞したのは冒頭で説明した通りです。
kawauso編集長コラム
黎陽営とは、光武帝が天下統一の主力に使った幽州騎兵、冀州騎兵、幷州騎兵を統べるために黎陽においた軍事拠点で、騎兵千騎が駐屯していました。洛陽の北軍五校、長水校尉、歩兵校尉、射声校尉、屯騎校尉、越騎校尉。さらに、関中の虎牙営、扶風の雍営と並んで禁軍の精鋭です。
反曹兄弟、司馬朗と司馬懿
こうしてみると、司馬懿も司馬朗も曹操嫌いであった事に一貫性があります。どうして曹操が嫌いかというと、個人うんぬんというより政策と国家観が儒教の理想に遠く、秦以来の中央集権国家の性格が濃厚だったからです。司馬朗は、丞相主簿になった頃に、儒教の価値観に根差した政策を提言します。しかし、復古的な司馬朗の提言は無視されました。
その後、司馬懿は兄同様に仮病を使って曹操の辟召を拒否。しかし、曹操は諦めず仕官しないと投獄すると脅して司馬懿を仕官させます。
その後司馬懿は将軍として頭角を現し、諸葛亮を五丈原で破って北伐を頓挫させた事で名声は不動になり一事の停滞期はあるものの、政敵の曹爽をクーデターで追い落とし、屯田制、特に民屯を食い物にしてのしあがり、司馬懿の孫の司馬炎は、蜀漢を滅ぼした後、西暦266年に民屯を廃止します。その後、呉を滅ぼすと、井田の流れを汲んだ占田・課田制を開始しました。
三国志ライターkawausoの独り言
儒教の理想に根差した、司馬朗や司馬懿の「周王朝の夢よ、もう一度」でしたが、西晋王朝は、司馬炎の晩年のボンクラ化や、八王の乱などで国内が大混乱。異民族の侵攻を招き、短期間で滅亡を余儀なくされました。
短期間に終わった西晋でしたが、江南に起こった東晋王朝は、世襲貴族が力を持つ皇帝独裁とは真逆の政権でした。もし司馬炎がボンクラにならなかったら、周を真似た制度がどんどん実施され中国は、始皇帝以前の封建制の時代に逆戻りしたのかも知れません。読者の皆さんは司馬懿や司馬朗をどう思いますか?
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