江戸の人口は18世紀初頭には推定100万人を超え、世界一の大都市に成長した事は知られています。では、どうして江戸にはこれだけの人口が集まったのでしょうか?今回はその後編です。江戸城建築の「天下普請」で日本中の大名が江戸に集まった結果、江戸はどうなっていくのでしょうか?
武士を食わせるために町人屋敷が出来た
さて、土木工事に従事する大名屋敷や御家人、旗本屋敷は出来ましたが、武士階級は戦うのが仕事の純粋消費者です。そこで武士の胃袋を満たし生活必需品を生産するために、日本中から大勢の人々が江戸にやってきて武士の消費を支えるようになります。
江戸城があらかた完成すると幕府は、諸大名に人質を出させて江戸住まいを命じ、大名は一年ごとに国元と江戸を往復する参勤交代が成立しました。このため、江戸城が完成しても武士人口は減る事がなく、江戸は軍人である武士が50万人、非戦闘員である町人が50万人という軍都になったのです。
江戸城が江戸を築いた原動力だった
江戸は元々、複数の川が入り組んだジメジメした湿地帯でした。そのままの場所に屋敷を立てると病人が出てしまうので、家康は山を切り崩して湿地を埋め立て、運河を掘削して水を引いています。また海に近い江戸は井戸を掘っても塩水が出るので神田上水を開削して水道を通すなど、江戸城を守るライフラインを維持する為に、大規模な公共事業を幾つも起こしています。つまり、家康は江戸を西の侵略から守る為に巨大な江戸城を必要とし、江戸城を造る為に、まず江戸を造らざるを得なかったのです。
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