鎌倉殿の13人に登場し、ドラマの最初から最後まで義時を裏切りそうで裏切らない絶妙な綱渡りを繰り返し自分は天寿を全うしたのが三浦義村です。そんな三浦義村、承久の変後に天皇を廃して新しい天皇を立てるという史上空前の処分をしているってご存知ですか?
三上皇を流罪、天皇を廃位した執権義時
承久の乱後、北条義時は朝廷が二度と幕府に攻めて来ないように苛烈な処置を取りました。後鳥羽、土御門、順徳の3人の上皇を流罪とし、乱の首謀者である後鳥羽上皇の子孫をすべて出家させたり島流しにし、二度と後鳥羽系の天皇が即位しないようにしたのです。
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天皇の首をすげかえた義村
さらに義時は仲恭天皇を廃位して、高倉天皇の第二皇子である行助(ぎょうじょ)入道親王を上皇として院政を敷かせるとともに、その三宮である茂仁(ゆたひと)王を後堀河天皇として擁立する事にしました。しかし、義時は鎌倉にいたのであり、京都で実際に仲恭天皇の廃位と後堀河天皇の即位を指揮したのが義村でした。義村は茂仁王の御所にやってきて即位を懇願し、王がそれに答えて後堀河天皇となりました。
マッカーサーを超えた義村
日本の歴史上、臣下の身分にある者が天皇を退位させ、新天皇を即位させたケースは三浦義村以外にはありません。大東亜戦争の敗戦後にやってきたGHQトップであるマッカーサーでさえ昭和天皇を廃位する事はありませんでした。当時は天皇や上皇に危害を加えたものには神罰が落ちると本気で信じられた時代であり、義村にもかなりの重圧があったと予想できますが、義時は動じることなく処分を徹底させました。
武士の天下を不動にした三浦義村
鎌倉の従五位下の官位しか持たない執権、北条義時が3人の上皇を流罪とし、天皇を廃位して新しい天皇を即位させる。平安時代からでは暴挙としか思えない事が実現された事で、日本では権力の中心が完全に天皇から武士に移る事になりました。以後、武士は常に権力の中枢にあり続け、それは650年後の明治維新まで継続します。三浦義村は天皇の時代に終止符を打ち、武士の世の始まりを告げた傑出した人物だったのです。
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