趙雲は蜀(221年~263年)の将軍です。
最初は公孫瓚の配下でしたが、彼の命令で劉備の軍に救援に赴いた時に劉備と知り合い以降は劉備の配下となります。劉備とは死ぬまで信頼関係で結ばれていました。
今回は正史『三国志』をもとに、劉備と趙雲の信頼関係を執筆します。
ひょんなことから出会った2人
先述したように趙雲は公孫瓚の配下でした。趙雲は天下統一して民に安らぎを行う主を求めていたので、公孫瓚がそれに値しない人物と見た時は見限る気でいました。ある日のこと、公孫瓚の命令で趙雲は青州刺史の田階の援軍に行きます。
田階は公孫瓚の命令により袁紹と戦っていましたが苦戦していました。この時に田階のもとにいたのが劉備でした。劉備と話し合った趙雲はすっかり意気投合しました。
一緒にベッドを共にする仲になりました。あっ、勘違いしないでください。
劉備と趙雲は変な関係じゃありません。それぐらい仲が良い表現という史料の表現です。
「誰も思わないよ。そんなことを考えるのは晃ぐらいだろう」
そんなこと無いと思うのですけど・・・・・・とりあえず先に進みましょう。
やがて趙雲は兄が亡くなったので故郷に帰ることになります。中国では家族が亡くなったら、喪に服す慣習があります。この時、劉備は趙雲とはもう会えないと思いました。しかし趙雲は「あなたのことは裏切りませんよ」と言って立ち去りました。
劉禅と夫人を助ける趙雲
建安5年(200年)に劉備は曹操から逃げて袁紹のもとに保護を求めました。なんと偶然にも、そこで劉備は趙雲と再会します。運命とは凄いです。
その後、袁紹は曹操に敗れて劉備は今度は荊州の劉表に保護を求めます。ところが、劉表も建安13年(208年)にこの世を去って荊州も曹操の手に落ちました。
荊州が曹操の手に落ちると、劉備は兵と民を率いて逃げます。しかし、途中の長坂で曹操軍に追いつかれます。この時、劉備は妻と子の劉禅、娘2人を捨てて逃げました。娘2人は曹操軍の捕虜となりました。
趙雲は乱戦の中で幼い劉禅と母の甘夫人を助け出して帰還することに成功します。この乱戦の時に、趙雲が曹操軍に投降したという誤報が劉備のもとに入りました。ところが、劉備は報告を入れた兵に対して、「趙雲は俺を見捨てないもん!」と言って手戟でボコボコにしたそうです。
「手戟」は呂布が武器として使っているアレです。アレで叩くとは叩かれた兵は可哀そうですね。劉備の予想通り趙雲は劉禅と甘夫人を連れて帰ってきました。この功績により趙雲は「牙門将軍」になりました。
再び劉禅を助ける趙雲
趙雲は再び劉禅を助けることになります。劉備は建安14年(209年)に孫権の妹と結婚します。有名な孫夫人です。
小説『三国志演義』では仲の良い夫婦として描かれているのですが、実際はそうでも無いようです。結婚時点で劉備は49歳、孫夫人は18歳です。親子ほどの年齢の差があります。こんな結婚がうまくいくはずがありません。
おまけに孫夫人は自分の家柄を鼻にかける人物であり、劉備の領地ではかなり評判が悪かったのです。建安17年(212年)から劉備は益州の劉璋を攻撃するために、領地である荊州を離れていました。
ただし、孫夫人の動向については目を光らせておきたかったので、劉備は日ごろから規律に厳しい趙雲を孫夫人の近くに置いておきました。案の定、孫夫人は劉備がいないスキを狙って、勝手に孫権のもとに帰ろうとするばかりか、劉禅まで拉致しようと企みます。これを察知した趙雲は阻止することに成功します。
劉禅はこうして2度も趙雲に命を救われたのでした。
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さよなら、劉備
蜀の章武元年(221年)に劉備は呉(222年~280年)に討たれた関羽の敵を討つために遠征をする決意をします。ところが、これに趙雲は反対します。趙雲は呉よりも魏(220年~265年)を討つことが大切であることを説得しました。
しかし、劉備は趙雲の意見を無視しました。あれほど趙雲を信頼していた劉備も関羽の敵討ちになると、前が見えていないようです。
こうして出陣した劉備ですが結果は呉の陸遜の前に敗北しました。この時、趙雲は劉備を救出するために出陣するために来てくれたのです。やはり彼と劉備との絆は固かったのです。
だが、呉との戦に負けた心労により劉備は章武3年(223年)にこの世を去りました。長年に渡り固い絆で結ばれた劉備と趙雲に永遠の別れが来たのです。
三国志ライター 晃の独り言
以上、劉備と趙雲の絆についての話でした。趙雲はその後も、蜀のために尽力して建興7年(229年)にこの世を去りました。不思議なことに功績を残した割には出世が出来なかったのです。
これは今でも謎です。
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