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太公望、西伯の師になる
太公望は生まれつき不器用ですし、老人でもあるので雇ってくれる家もなく、仕方がないので釣り竿を背負い渭水で釣り糸を垂れて魚釣りを始めます。
水面を見つめつつ、思い起こしてみると、若い頃から書物が好きなだけで、何をやっても身に付かず、こんな老人になり遂には妻に捨てられた事が惨めに感じられてなりません。
「おい、魚よ、こんなクズ人間に釣られていいというなら寄ってこい」
太公望は自虐的に下手な釣りをしていると、そこに周の西伯という立派な身なりをした人物が馬車で通りかかります。実は西伯は猟に来たのですが、前もって占いをしてみると、今日は、龍も蛟も虎も羆も獲れない、獲れるのは覇王を補佐する人物だと出ていて、占い通り何も獲れないので、果たして何に出会うのかとワクワクしていたのです。
そして、渭水の畔で釣りをしている老人、太公望に出会いました。
実際に話してみると、この老人どんな事にも詳しく西伯はすっかり感心して、占いの言う覇王を補佐する人物とは、この老人に違いないと恭しく跪いて師として迎えます。この西伯は後に周の文王と呼ばれる聖王でした。リストラジジイは、一躍聖王の師となったのです。
太公望異聞
太公望には別の話も伝わっています。それによると、太公望は博識な賢人として殷の紂王に仕えていましたが、あまりに無道な紂王に愛想を尽かして宮廷を去りました。
遊んでもいられないので再就職しようと、太公望は諸侯に自分を売り込みますが誰も雇ってくれません。それで、流れに流れて西の果てで周の西伯に仕えたというのです。
また、別の話では太公望は世捨て人で海の近くに住んでいましたが、周の西伯が殷の紂王に捕らわれて監獄に閉じ込められたことを知人の散宜生や閎夭から聞きます。
そこで太公望は、「西伯は賢人で老人を養う、これは救わねばならぬ」こうして、西伯を救う為に紂王に美女と珍品を贈り西伯の罪を贖いました。
このように、大昔の話なので太公望の異聞は多くありますが、いずれも最後には西伯に出会い、その師になるのは同じです。
太公望、謀で周を強大化する
西伯は、賢明な人物なので紂王に疎まれ一度は牢獄に幽閉されますが、紂王の取り巻きの佞臣に賄賂を贈り逃れると、そこから太公望と策を練ります。それがどんな策なのか詳しくは書かれていませんが、つまりは殷の紂王のやる事の逆をしたのでしょう。
つまり、老人を敬い、弱者を養い、孤児を教育し、罪人を恩赦し、税金を安くするなど、こうするだけで周囲の諸侯は、増々紂王に愛想を尽かして西伯に付きます。しかし、西伯はただ慈悲深い仁君ではなく、狡猾な側面もありました。自分に従わない崇や密須、犬夷というような周辺国を討伐して領地を広げて天下を三分し、その3分の2を領有しドンドン豊かになり殷の勢力を凌いでいったのです。
こうして、西伯は聖人として文王と称えられるようになりますが、遂に殷討伐の軍を興す事なく亡くなります。史記によると、これらの謀は全て、太公望から出ているそうで、六韜のような有名兵法書も太公望が書いたとされています。まさに太公望こそ後世の軍師の手本なのでした。
武王、八百諸侯に檄を飛ばす
文王が死ぬと、息子の武王が即位して9年、いよいよ文王の念願であった殷討伐を開始しようとします。そこで周辺の諸侯に檄を飛ばしどれくらい賛同するか試してみようと考えます。
この時、太公望は左手で黄鉞を杖にし、右に白旄を掴み、
「全ての諸侯は今すぐ、動員できる全ての舟を率いて来い。もしぐずぐずして遅れてくるものがあれば斬れ」と伝令します。
かくして、武王の軍隊が盟津に至ると、八百人もの諸侯が集結していました。諸侯は「紂王討つべし」と息巻きますが武王は「まだ早い」と止めて、さらに2年待ちました。その間も紂王の暴虐は止まず、いよいよ武王は紂王の討伐を決意します。
太公望、占いを無視して進撃
そこで、船を使う前に、全ての諸侯で誓約を交わし占いをして戦争の吉凶を見ますが、いくら占いしても答えは凶でした。さらには、不吉さを増すように空はかき曇り暴風雨が吹き荒れていきます。これには八百諸侯も怯え、殷の討伐軍は崩壊しそうになりました。
しかし、ここで太公望は臆する事なく船を出し、武王もこれに勇気づけられて盟津を渡り、それから2年後、正月牧野の戦いにおいて紂王の軍を打ち破ります。紂王は逃げますが、ついに武王に斬られました。
武王は無道の紂王を討った事を天に報告し、太公望も生贄を捧げて天祐を感謝します。なかなか古式ゆかしいですが、こうして殷は滅び周王朝が建国されたのです。
辺鄙な斉を豊かな国に変える
殷に替わって天下の覇者になった武王は、功績があった諸侯に領地を分け与えます。太公望も事実上の軍師として功績を挙げ、斉という海の傍の辺鄙な土地を与えられました。
どうして、大手柄を挙げた太公望に、そんな辺鄙な土地なのか?理由は分かりませんが、功績が大きいために警戒されたかも知れません。おまけに、斉にはすでに莢侯という有力者がいたので太公望は着任早々に莢侯と争わねばなりませんでした。ゼロどころかマイナススタートです、なかなか厳しいですね。
しかし、賢人にして謀が多い太公望は、莢侯との戦いに勝ち政治を執り始めます。太公望は、強引に土地の習俗を変えようとはせず、礼儀を簡単にし痩せた土地を無理に耕作せず、海に近いので漁業と製塩業を盛んにしました。
これにより、斉は商工業が急速に発展し農地が痩せているにも関わらず人民が集まり強国になります。
周で、武王が若くして死ぬと幼い成王が即位したので、諸侯の管と蔡が反乱を起こし淮夷も周に叛きました。そこで、召康公が太公望に命じ、「東は海に至るまで、西は河に至るまで、南は穆陵に至るまで、北は無棣に至るまで五侯九伯が罪を犯した時には、斉が征伐してもいい」というお墨付きをもらいました。こうして斉を強くした太公望は、百歳を超える長寿を全うし死去したそうです。
殷周革命ライターkawausoの独り言
以上、史記に記録された太公望の生涯について書いてみました。若い頃から書物が好きなだけで、他は何も出来ない老人が家を追い出されて、途方に暮れて釣りをしていると、そこに聖王が通りがかり、博識を買われて軍師になるなんて、どこのチート転生ストーリーだよ?と思いますね。でも人間、どこにその人の真の才能があるかなんて誰にも分かりませんから、太公望のストーリーは勇気を与えてくれる話ではあります。
文:kawauso
参考文献:史記 斉太公 世家
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