中国には、三代という言葉があります、それは夏・殷・周の古代王朝を意味し理想的な政治が行われたユートピアの意味合いがあります。
その中で、現在、実在が確実視されているのは、殷王朝です。
前回記事:歴史は繰り返す!三国志エピソード ゼロ
古代王朝、現在確認されている最古の王朝は殷王について
殷は現在の河南省最北部にある安陽市に本拠地があったとされています。政権が樹立したのは紀元前17世紀から16世紀とも言われます。現在から見ると、3000~3100年前という大昔です。
殷の政治体制は、氏族を中心とする神権国家でした。氏族とは、先祖を同じくし、同様の姓を持つ血族集団の事です。殷は、数千とも言われる大小様々な氏族を統率する立場であり、その政治は、神権政治と呼ばれるものでした。
神権政治って何?
神権政治とは、国家で重要な事を決定する場合に、王が神にお伺いを立てて、その吉凶を見てから決断をする政治体制です。その手段として使われたのが、動物の骨でした。動物の骨に象形文字を刻んで火にくべて、ひび割れ具合で重要な政治的な決断をしていました。この時の象形文字が後世の漢字になった事は説明不用でしょう。
殷時代の戦い方、この時代から兵器とかあるの?
殷の軍勢は、後の三国志の世界とは随分イメージが違います。それは、三人乗りの戦車を数百台駆使して戦うものでした。殷は軍を中央軍、左軍、右軍の3軍に分けて、お互いが連携して戦うという戦術を好んで使ったそうです。
関羽や張飛、呂布は、直接、馬に跨り合戦をしますが、殷の時代は、そうではなく、馬車の主は戦車の中央に乗り、左右の御者が戟や弓、槍ですれ違い様に敵を撃つというなんだか悠長な戦争だったのです。
それは平地が多い、黄河周辺に戦場が限定されていたので出来た戦法でした。殷王朝は、一説では、有力な10の氏族の連合政権だったという説があり、それぞれの氏族が、交替で王を出すという形で王国を運営していたという説があります。周の時代以降は、王は、天命を受けた1世の王の子孫のみが、就く事が出来るというシステムに変更されました。
こうして考えると、代わる代わる複数の王族が王位に就いてそれで国が乱れなかったのですから、殷は中々民主的な高度な政治を行っていたと言えるかも知れません。
殷が滅びた理由は・・・・
一方で、殷は戦争で捉えた捕虜を奴隷にして労働力を確保したり戦争捕虜を生贄にして、大掛かりな祭祀を行うなどしたので、周辺の諸侯の反発を買い滅亡を早めたとも言われます。殷は、500年以上も続き、紀元前1046年に、周の武王によって滅ぼされています。
殷の政治体制は後の国家と違う部分もありますが、血縁を持つ氏族を中心とするというような習慣は今の中国の血族社会を彷彿とさせ、矢張り強い影響を及ぼしているのだなと思いますね。
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