三国志は今から1800年ほど前の、中国を舞台とする物語です。
当然のことですが、現代の日本とは行政の制度がまったく違いますし、官職の名称もほとんど聞きなれないものばかりです。
今回は三国志に登場する代表的な官職のいくつかについて紹介します。
三公と丞相
後漢末から三国時代にかけて、中国王朝の官位の最高位にあったのが、太尉・司空・司徒の『三公』と呼ばれる役職です。
太尉は軍務を司り、朝廷に戦績を報告して賞罰を行う役職です。現代で言えば国防大臣にあたります。もともとは大司馬と呼ばれていましたが、改称されて太尉とされました。司空は村落から首都の整備、城砦の建設に至る国家事業としての土木工事を司る役職でした。
現代日本で例えるなら国土交通大臣でしょうか。
司徒は民事全般を司り、通常、三公の首座とされていた役職です。
三公の上に非常設の役職として『丞相』が置かれることがありました。
丞相は君主になりかわり、国政の全てを司る最高執政官です。
日本史においては摂政に該当する役職です。
三国志では曹操や諸葛孔明がこの役職についていましたね。
なお、曹操の息子である曹丕が興した魏では、丞相は『相国』と改称されています。
校尉
『校尉』は、武官の役職で、軍団を率いる上級の指揮官を意味します。
また、城門校尉や歩兵校尉、司隷校尉といった高級武官の役職の多くに校尉という名称が用いられました。
現代の日本では軍隊の上級士官のことを「将校」と呼びますが、この名称に「校」の字が用いられているのはこの『校尉』という役職名の名残です。
都督
『都督』は三国時代に入ってから設けられた武官の役職で、地方軍の司令官のことです。
都督の多くは『刺史(州牧)』(州の長官)を兼任しており、いわば地方の最高権力者でみありました。
唐の時代、遣唐使として中国に渡り客死した阿倍仲麻呂が、その死後に大都督の官名を贈られています。
執金吾
『執金吾』は宮廷の警護を司る武官の役職で、いわば衛兵隊長にあたります。
衛兵の隊長ですから非常に見た目の格好いい役職であったらしく、後漢王朝を開いた光武帝が若かりし頃『官職に就くなら執金吾になりたい。妻を娶るなら陰麗華(当時美人で有名だった女性)を娶りたい』と言う言葉を残したことでも知られています。
三国志では、董卓に反抗し呂布に殺された丁原が執金吾の職に就いていました。
関連記事:『三国志』人気を数字から考えてみる