兵法書(へいほうしょ)とは、戦争の場における軍隊の戦い方を論じた書物のことです。
中国には、『武経七書:(ぶけいしちしょ)と呼ばれる有名な7つの兵法書の古典が存在しました。
・『孫子』(そんし)
・『呉子』(ごし)
・『六韜』(りくとう)
・『三略』(さんりゃく)
・『尉繚子』(うつりょうし)
・『司馬法』(しばほう)
・『李衛公問対』(りえいこうもんたい)
その中でも古今東西にその名を知られているのが『孫子』です。
中国のみならず、広く世界で評価される兵法書であり、現代のビジネスマンにとってもビジネスの心得を学べる名著とされています。
また、武田信玄の軍旗で有名な「風林火山」の出典としても知られていますね。
兵法書『孫子』とは、どんな書物だったのでしょうか?
また、どんな人物が『孫子』を書いたのでしょうか?
この記事の目次
戦争の指南書なのに、内容は反戦的?
孫子は、戦争は国家の非常事態であると捉え、いたずらに軍を動かし戦争を行うべきではないという視点が貫かれています。
それは同書の中にある有名な
「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
(百回戦って百回勝つのが最良とはいえない。もっとも良いのは戦わないで敵国を破ることである)
という一文にも現れています。
孫子が現代にあっても名著として評価されているのは、単に戦時における兵の用い方を論じたものではなく、
あくまで国家を運営する視点から戦争を論じる点が、現代にも通じる普遍的な価値となっているからと言えるでしょう。
『孫子』を書いたのは誰?
『孫子』がいつ頃書かれた書物であるかについては、近年に至るまで2つの説が存在していました。
ひとつは紀元前500年頃(春秋時代)、当時の新興国であった呉(三国志に登場する呉とは別の国です)に仕えた人物、孫武(そんぶ)が記したという説、
もうひとつは孫武の時代から約100年後の戦国時代に斉という国に仕えたとされる孫臏(そんぴん)です。
(孫臏は孫武の子孫とされています)
長い間、『孫子』の作者は孫臏であるというのが有力な説とされていました。
しかし1972年になって山東省にある前漢時代の墳墓から『孫子』の書かれた竹簡が発見されたことがその説を覆しました。
現在では孫武が孫子の原型となる書を書き、後継者によって徐々に内容が付加され、
それをある人物が整理・注釈をつけることで現代目にすることのできる『孫子』が成立したと考えられています。
女性部隊を訓練した孫武
孫武は紀元前500年頃、呉の王であった闔閭(こうりょ)に仕えた人物とされています。
孫武については司馬遷(しばせん)の記した歴史書『史記』(しき)などにその記述を見ることができますが、孫武が生きた時代である春秋時代の歴史をまとめた『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)にはまったく記されていないことから、長い間実在の人物であることが疑われてきました。
しかし、前述した山東省での発見などから、現在ではほぼ実在の人物と考えられています。
『史記』に書かれている孫武の有名なエピソードに、こんな話があります。
孫武の著作を読んだ呉王闔閭は、ふざけてこんなことを言いました。
「先生の書物はすべて読んだが、宮中にいる女たちで軍の指揮を実演してくれないか?」
孫武は了承すると、王の後宮に仕える美女180人を宮殿の庭に呼び出し、二つの部隊に分けて並ばせました。
美女180人の軍の指揮を実演した孫武
孫武は女たちに太鼓の合図で動くよう命じ、「右向け!!」と言って太鼓をドンと鳴らしました。
しかし、女たちはそんな孫武を見てどっと笑い声をあげます。
孫武は王に「命令が伝わらなかったのは将である私の責任です」と謝罪。
再び女たちに命令すると今度は「左向け!!」と言って太鼓を叩きました。
しかし、女達はやはりマジメに命令を聞こうとはせず、笑い声をあげました。
命令を聞かない美女に孫武が取った驚くべき行動とは?
孫武は「命令を徹底したにも関わらず兵士が命令を聞かないのは、各部隊の指揮官に責任があります」と言い、隊長役の二人の女を斬首しようとしました。
二人の寵姫を殺されそうになった闔閭はあわてて
「その女たちを殺されては飯も食えなくなるからやめてくれ」と孫武を制止します。
しかし孫武は「一度、将軍として軍の運用を命じられた以上、現場ではいかに君命であっても従いかねることもございます」
と言って制止をはねつけ、二人の首を切ってしまいました。
そうして新たに二人の指揮官を選び直した上で訓練を再開すると、
斬首を目の当たりにした女たちは殺されてはたまらないと、今度は孫武の命令をきっちり守り、誰一人声を出すこともなく見事に行動しました。
孫武は訓練の成果を見てもらいたいと闔閭に言いますが、二人の美女を殺されてはなはだ不機嫌になっていた彼は「そんなもの見たくない」と突っぱねます。
孫武は闔閭に「陛下は兵を論じるのはお好きでも、実践することはできないのですね」と痛烈な皮肉を言ったとされています。
学友に復讐した孫臏(そんぴん)
孫武の時代のおよそ100年後、斉に仕えたとされるのが孫臏(そんぴん)です。
その“孫臏(そんぴん)”という名前、実は本名ではないとされています。
“臏”とは当時存在した足を切る刑罰の名前です。
孫臏には自分と同門の学友に騙され、足切りの刑を受けた過去がありました。
孫臏(そんぴん)は斉の人である鬼谷(きこく)という人物の教えを受け、同門に龐涓(ほうけん)という学友がいました。
龐涓(ほうけん)はその後、魏(三国志の魏とは別です)に仕えましたが、彼は同門であった孫臏の才能を恐れ、孫臏を魏に呼ぶと罠にかけて足を切る臏刑にしてしまいました。
その後、孫臏は魏にやってきた斉からの使者に救い出され、斉に仕えるようになります。
十数年の後、魏が斉の同盟国であった韓を攻めた際、斉王は救援部隊を差し向けます。
孫臏は軍師としてこの部隊に同行します。
相手の将軍が龐涓であることを知った孫臏は、自軍の部隊から脱走者が相次いでいるように偽装、わざと逃げて見せます。
一方で伏兵を用意した上で木の枝に「龐涓、この樹の下で死す」と記した板をぶら下げ、敵軍を待ち受けました。
斉の軍隊が臆病だと高をくくっていた龐涓はこれを追跡、夜遅くになって孫臏が用意した板のぶら下げられた木の前まで来ます。
彼が明かりを灯してそこに書かれた文面を読んだ瞬間、それを合図に周囲に潜んでいた斉の伏兵が一斉に矢を仕掛けました。
孫臏に陥れられたことを知った龐涓は「ついにヤツの名を成さしめてしまったか!!」と叫んで自害、斉は魏の軍勢を破ることに成功しました。
孫武と同じく、孫臏も『孫臏兵法』と呼ばれる兵法書を記しています。
兵法書『孫子』はこの孫臏の記した兵法書ではないかと言われていましたが、1972年に『孫子』の原型文と同時に、『孫臏兵法』も発見されています。
現在、読むことのできる『孫子』をまとめたのは、曹操だった。
当初31篇から成るとされた『孫子』はその後、孫武の後継者たちによって82篇にもなる大著となっていました。
これを整理し、13篇にまとめ直したものが現代でも読まれる『孫子』の原型となっています。
このバージョンの『孫子』を『魏武帝註孫子』(ぎぶていちゅうそんし)と呼びます。
ここで言う『魏武帝』とは、孫臏の時代の魏ではなく、三国時代の魏です。
その魏の武帝がまとめたのが『魏武帝註孫子』……つまり、このバージョンの『孫子』を編さんしたのは、あの曹操だったのです。
曹操が編さんした『孫子』が現代ビジネスマンにも読まれていると考えると、なんだか三国時代がとても身近に感じられませんか?