誇りを失ってもなお『史記』を書いた司馬遷の執念


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曹操 耳で聞いて覚える三国志

 

『三国志』は、『二十四史』と呼ばれる中国の正史(主に王朝が編さんする歴史書)

のひとつに数えられています。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

読まれたことのある方であればご存知かと思いますが、

正史『三国志』は人物毎に情報をまとめて記述する、

いわゆる紀伝体(きでんたい)で書かれています。

しかし、中国で歴史書が書かれるようになった当初、

一般的に用いられていたのは編年体(へんねんたい)と呼ばれる、

年代順にできごとを記す書式でした。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

『三国志』が紀伝体で書かれたきっかけとなったとされる正史、それが『史記』です。

『史記』を書いた司馬遷とは、一体どのような人物だったのでしょうか?


父の遺志を継いで歴史書の編さんを志す

 

三国志関係で“司馬”の姓のつく人物と言えば、多くの方はまず司馬懿を思い出すかと思います。

“司馬”とは本来、軍事を司る官職の名前であり、

その官職についていた家系が“司馬”の姓を名乗ったと考えられます。

そのことから、大本をたどってけば二人の間に血の繋がりがあるのかもしれませんが、

直接的な血縁ではないことは確かです。

 

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司馬遷の父、司馬談の遺言によれば、

彼の家系は古くから歴史や天文を司る一族であったと言います。

古くは堯(ぎょう)や舜(しゅん)といった中国の神話上の存在とされる王に仕え、

始皇帝の時代には鉄鋼を管理する役職にあったと言います。

 

司馬談は歴史書編さんを志していましたが、

その夢を果たすことなく病没、司馬遷は父の遺志を引き継いて、

自ら歴史書の執筆を志すことになります。

 

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友人の罪に連座させられ死刑を迫られるが……。

 

父の遺志を継いで歴史書の執筆にとりかかった司馬遷でしたが、

思わぬ災難に見舞われることになります。

 

呉南蛮異民族をボコボコにする潘濬(はんしゅん)

 

当時、漢王朝にとって西域の異民族対策は重要な課題となっていました。

司馬遷の友人であった将軍の李陵は当時の皇帝である武帝に願い出て、

自ら異民族の匈奴を討伐する任に就きます。

当初は善戦した李陵でしたが、自軍の五倍の敵に包囲され、やむなく降伏します。

 

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友人の李陵を弁護した司馬遷

武帝は前漢の第7代皇帝

 

李陵降伏の報は武帝を激怒させ、臣下たちもこれに迎合しましたが、

ただ一人、司馬遷は李陵の勇戦を主張し、彼を弁護しました。

しかし、そのことが武帝の逆鱗に触れてしまい、司馬遷は投獄されます。

さらに、寝返った李陵が匈奴の兵に軍事訓練を行っているという報告が届くに至り、

武帝は李陵の一族ことごとくを処刑し、司馬遷にも死刑を命じます。

 

しかしこの時、司馬遷にひとつの選択肢が与えられます。

それは、死罪を免れたければ金を払うか、それとも宮刑(きゅうけい)を選べというものでした。

 

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宦官になっても『史記』を完成させようとした執念

 

宮刑(きゅうけい)とは別名腐刑(ふけい)とも呼ばれる刑罰で、

罪人の性器を切り取るというモノでした。

この時代、宮刑は死罪に次ぐ重罪であり、

宮刑にされた者はその後宦官として宮中に仕えるという恥辱を与えられました。

 

選択肢を与えられた司馬遷は宮刑を選びました。

宦官に身を落とすという屈辱に耐え、彼は父から託された歴史書の完成を志したのです。

 

牢獄から釈放されてから6年後、司馬遷の『太史公書』……

後世『史記』と呼ばれる事となる歴史書は完成しました。

その後、司馬遷がどのような余生を送ったのかは、現代には伝えられていません。

 

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『三国志』に記された『史記』執筆の真実とは?

劉備読書

 

『三国志』に、司馬遷の『史記』執筆にまつわる話が書かれています。

魏の二代目の皇帝であった明帝(曹丕の長男の曹叡)は臣下の王粛に

「司馬遷は自分を宦官にした武帝を恨んでおり、

『史記』で武帝を非難したと聞くが」と訊ねました。

これに対し、王粛は次のように答えたと言います。

 

「司馬遷は恨みで事実を捻じ曲げるような真似はしていません。

彼が投獄されるより前、武帝は書きかけの『史記』のうち、

自分とその父である景帝の章を取り寄せて読んでいますが、

その内容に激怒して捨ててしまいました。

恨みの感情を持っていたのは司馬遷ではなく、武帝の方だったのです」

 

武帝が司馬遷を恨んでいたのだとすれば、

なぜ司馬遷が死罪か宮刑のいずれかを選択するよう迫られたのか、

その理由がわかるような気もします。

 

波瀾万丈の生涯を送った司馬遷。

彼の歴史書に対する情熱と執念が『史記』という形で身を結び、

『三国志』にも影響を与えたことを思うと、感慨深いものを感じますね。

 

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