こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
法による統治を説いた『韓非子』
韓非が生きた戦国時代末期は中国古代史において最も思想が盛んになった時代でした。『百家争鳴』と言われ、数多くの思想家が登場する中、最も主流とされたのは孔子(こうし)を始祖とする『儒家』(じゅか)でした。
『儒家』の思想家の基本的な考え方に『性善説』(せいぜんせつ)があります。
性善説って何?
性善説とは、「人間は本質的に善なるものである」とする考え方です。ただ、本質的には善であっても、そのまま放置してしまえば悪をなすようになってしまうため、人間には道徳を教え、善を維持するようにしなければなりません。儒家のこうした考え方を『徳治主義』(とくちしゅぎ)といいます。
しかし、儒家の思想家の中には性善説に疑問を持つ思想家もいました。その代表者が筍子(じゅんし)です。筍子は人間の本質が利己的なもの=悪とする『性悪説』(せいあくせつ)を唱え、悪しきものである民を統治するために君主の徳が必要であると考えました。
(ちなみに、この筍子は三国時代に曹操に仕えた荀彧や荀攸の祖先にあたる人物とされています)韓非と、後に彼を裏切ることになる李斯は、この筍子に師事した同門の学友でした。
韓非は筍子の性悪説を基本とし、国家は『徳』のような君主の恣意的帰順ではなく、厳正な基準となる『法』によって統治されるべきと主張しました。このような思想を『儒家』に対して『法家』(ほうか)と呼びます。法家の思想は、より客観的な法律を基準とした国家運営を説く思想として、より現代に通じる思想であるとも言えるでしょう。
孔明は何故、劉禅に韓非子を?
なぜ孔明は劉禅に『韓非子』を読ませようとしたのか?
現代では帝王学の古典として知られる『韓非子』。
劉備の後継者となる劉禅に孔明がこの帝王学の教科書を読ませようとしたことは、一見あまり不思議には思えないかもしれません。
しかし、孔明がいわゆる“清流派”知識人に親しいところにある思想家であったことを思うと、その彼がなぜ“徳による統治”を否定する法家の思想=韓非子を劉禅に読ませようとしたのか、矛盾を感じなくもありません。
孔明はもともと益州(えきしゅう)=蜀(しょく)の地の生まれではありませんでした。彼の一族は戦乱に巻き込まれて遠く徐州(じょしゅう)から荊州(けいしゅう)へと流れつきました。まだ幼かった孔明はその目で、戦乱の悲惨さを目の当たりにしたに違いありません。
だからこそ、孔明は徳を重んじる儒家清流派の思想に立ちながら、一方でその限界を感じ、より合理的で公正な国のあり方を模索していたのかもしれません。だから彼は劉禅に対し、君主としての理想的な徳を身に付けると同時に、より公正な統治者としての法家的思想を身につけて欲しいと望んだのではないでしょうか?