三国時代以前、中国全土を統一支配していたのは『漢』という王朝でした。
トータルすると400年の長きにわたって中国を支配した漢ですが、その途中、わずか15年の間だけ、漢王朝の帝位を簒奪(さんだつ)し、
中国全土を支配した王朝が存在しました。
その名を『新』といいます。
(新以前の漢を『前漢』、新以後の漢を『後漢』と呼びます)
中国史上初となる、帝位簒奪を行った人物。
それが王莽(おうもう)です。
簒奪って何?
簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い者から君主の地位を奪取する事。
王莽とは?
果たして、王莽とはどのような人物であったのでしょうか。
また、彼が興した『新』の王朝は、なぜこれほど短命に終わったのでしょうか?
王莽の青年時代
皇帝の外戚でありながら貧しい青年時代を過ごした王莽皇帝や王の母親や妃の一族のことを外戚(がいせき)と呼びます。
伯母が皇后であった王莽も、皇帝の外戚に当たります。
しかし、彼の伯父たちが朝廷から高い地位を与えられたのに対し、王莽はその父や兄が早くに死んだことから地位を与えられず、貧しい環境で育ちました。
若き日の王莽は慎み深く、質素な身なりをしていました。
勉学に勤しみ儒学を深く学び、母親や兄嫁に孝行を尽くしたといいます。
王莽の人生に転機
王莽の人生に転機が訪れたのは、彼が壮年期を迎えた頃でした。
王莽の伯父であり大将軍を努めていた王鳳(おうほう)が病に倒れると、王莽は甲斐甲斐しくその看病を続けました。
王莽の孝行ぶりに感心した王鳳は当時帝位にあった成帝(せいてい)に彼を推挙。それをきっかけとして王莽は出世の道を歩むことになります。
王莽の野望
皇帝を殺害し、新たに即位した帝を傀儡化、そして簒奪。
ついに『三公』(さんこう)と呼ばれる朝廷で最も位の高い3つの役職のひとつである大司馬(だいしば)にまで上り詰めた王莽は、その権力を私利私欲のために奮います。
成帝が崩御した後に即位した哀帝(あいてい)によって一度はその地位を追われますが、哀帝を殺害。新たに平帝(へいてい)を擁立して大司馬の地位に復帰します。更に彼が擁立した平帝が崩御すると、今度は自らが『仮皇帝』を自称、朝廷の権力を掌握します。
王莽は漢王朝を創った高祖、劉邦(りゅうほう)が記したとされる書物を偽作し、そこに自分が皇帝となる根拠が記されているとして、皇太子に禅譲を迫ります。そしてついに、王莽は皇帝の地位を簒奪し、新たに『新』(しん)という国を興しました。
新はどんな国?
懐古主義的な政治を理想とした王莽
若き日の王莽は儒学思想を熱心に学んでいました。
その影響なのか、彼は自分が生きている時代よりも1000年も昔に栄えた『周』(しゅう)の政治を理想としていました。
宮廷に多くの儒学者たちを招き入れ、周の時代の政治を研究しそれに倣った政策を取ります。
彼が帝位簒奪に利用した偽書も、彼自身が儒学に精通していたからこそ、作り得たものであると言えるでしょう。」
しかし、彼の取った政策の多くは時代錯誤なもので、国は混乱し、財政も逼迫してしまいます。
各所で反乱が続発し、王莽が派遣した討伐軍も大敗。結局王莽は反乱軍が首都長安に入城した混乱の中で殺害されてしまいます。
学校の語源
初の『簒奪者』が遺した意外な“名称”
中国史上、初めて帝位を簒奪したということから、王莽は後世の学者たちから政治指導者としてのみならず、
その人格すべてを否定するような、厳しい批判を受けています。
そんな王莽が、現代の日本で日常的に使われる、ある単語を創ったとする説があります。
王莽は儒学を学ぶための学び舎を各地に設けましたが、その施設は「学」、あるいは「校」と呼ばていました。
この「学」と「校」が、日本語の「学校」の語源であるというのが有力な仮説とされているのです。