横浜中華街の関帝廟はどうやって誕生したの?

2015年8月15日


 

関羽の生誕日は西暦160年頃旧暦6月24日と言われています。

横浜関帝廟は主神・関羽の生誕日を祝う伝統行事「関帝誕」を毎年行っています。

 

今年は2015年8月8日に開催されたので、

「関帝誕」に三国志代表おとぼけが行ってきたよ!

 

写真で見ても分かるとおり、すごい参拝人の数ですね。

関帝廟は線香の香りが漂い参拝の人がなかなか絶えることがありません。

 

なぜ、こんなにも参拝人が絶えないのか?

横浜關帝廟は、約130年の歴史があり、

もしかしたら横浜関帝廟の誕生に隠されているかもしれません。

 

そこで、はじめての三国志は横浜関帝廟の歴史を辿ってみるよ!

 

関連記事:関帝廟ガイド~知っておきたい、正しい「基本」の参拝方法

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも横浜中華街はどうやってできたの?

 

横浜港が開かれる以前の中華街周辺は、「横浜新田」と呼ばれていました。まだ、当時は幕末時代です。

 

そして1859年に横浜が開港すると欧米から商人がこぞって集まるようになりました。

日本人と筆談できる中国人を仲介役として来浜し、一帯を居留地として開発します。

 

また欧米商人だけではなく、活版印刷などの新しい秘術を身につけ来浜する中国人も増え、

明治初年(1868年)には横浜に暮らす華僑(中国人)は1000人を超える規模まで増えました。

 

華僑の人々は居留地の横浜新田を造成した地域に集まりました。

そこには中華会館などが設けられ中華街の原型が出来上がったのです。

 



横浜関帝廟誕生のきっかけ

横浜関帝廟

 

1862年頃に、一人の中国人が関羽の木造を抱きながら現在の地(山下町140番地)に簡易的に廟を立てたという説があります。

創建当初は小さな小屋のようなものだったらしいです。

 

明治32(1899)年に居留地が廃止され一気に発展

 

1871年9月の英字新聞では1867頃に建てられた関帝廟の内部の写真が新聞に掲載されています(資料写真を用意できず申し訳ない)

 

1886年に関帝廟を遷座し1891年にはレンガ造りの外観を持つ立派な建物に変わっていきます。

中華街もレンガ造りの建物が密集するようになりました。

しかし32年後にレンガ造りの建物の密集が悲劇を生むことになります。

 

横浜関帝廟

1899年、居留地が廃止されると人口はさらに増加しました。

華僑は5000人に達し、華僑社会はさらに発展を遂げていきます。

横浜関帝廟は華僑の心の拠り所で生活の中心になるほど身近な存在になりました。

 

 

横浜関帝廟の危機・関東大震災(1923年)

 

1923年に関東大震災の影響で中華街に壊滅的な被害を与えました。

古いレンガ造りの建物が密集していたため、多くの家屋は倒壊・焼失。

その中に、関帝廟も含まれていました。

 

それだけではありません。

関東大震災で多くの華僑が命を落とし、生き残った人々も中国に帰ったり、神戸や大阪に避難していきました。

5000人以上も達していた横浜華僑は200人ほどに激減してしまいました。

 

横浜関帝廟の危機・日中戦争勃発(1937年)

 

昭和に入ると華僑人口も3000人あまりにも回復していきますが、1937年に日中戦争が勃発。

横浜に生まれ育った華僑たちは街に残りましたが、多くの華僑は中国に帰りました。

 

日中戦争により両国の関係が悪化し反中国感情の高まりで中華街を訪れる客足は途絶えてしまいました。

それでも横浜の華僑たちは、日本との関係を良好になるよう努力を続けて戦時下を乗り越えていきました。

 

横浜関帝廟の危機・第二次世界大戦(1945年)

 

アメリカ軍による東京大空襲によって中華街も焼きつくされてしまいました。

一面焼け野原となるほど被害もひどく至る所で巨大な火災旋風が発生しました。

 

そのため避難をしながらも火災旋風に巻き込まれて焼死してしまった人や、炎に酸素を奪われて窒息によって命を奪われた人も多く悲惨な状況です。

 

民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われています。

単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大です。

 

日中戦争時の反中国感情で困難を受けたが日本との関係を良好に築くよう努力した華僑の人もこの空襲によって亡くなってしまいます。

 

終戦とともに復興

 

終戦とともに復興が開始されました。

翌年には関帝廟や横浜中華学校も再建されるまで復興がすすみました。

華僑の人口も次第に3000~4000人台まで回復し、街には日本人が食材を提供し

中国人が飲食店を営むという形で分業も進みました。

 

高度成長期と日中国交正常化

 

1960年台に入ると高度成長期に入り、中華街も更に発展しました。

1972年の日中国交正常化により中華街は観光地としての地位を確立していきました。

 

横浜関帝廟の危機・不審火(1986年)

 

1986年元旦に、なんと関帝廟は不審火によって焼失してしまいます。

それでも街人の協力を得て1990年に再建することに成功しました。

 

はじめての三国志代表おとぼけの独り言

 

数々の苦難の歴史を刻んだ横浜中華街と関帝廟、そして華僑の人たち。

街の人々は伝統の重みを胸に、思想や信条を超えて協力し、3度の困難を乗り切り今に至っています。

先日(2015年8月8日)、関帝廟祭に、初めて訪れたが、クライマックスとなるパレードは見ものでした。

通常よりも賑やかで笑顔で満ち溢れた中華街に、3メートル近くある将軍や、獅子舞・龍舞・演舞舞・楽隊のパフォーマンスが加わり、中華街全域を周ります。

 

今回の記事を機会に来年の関帝廟祭をぜひ、

肌でその歴史を感じてみてはいかがでしょうか?

 

 

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otoboke

数々のブレストと思いつきで場を散らかした後、権限委譲と言い放ち、kawauso編集長に丸投げし去っていく。インターネットの不特定多数無限大の可能性にロマンと情熱を捧げる「はじめての三国志」の創設者。創造的で自由な発想が称賛や批判を創発し、心をつかむコンテンツになると信じている。各メンバーのパーソナリティを尊重し、全員の得意分野を活かし、補完し合うチーム作りを目指している。

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