劉勲(りゅうくん)は青州瑯邪郡の生まれで、字は子台。袁術とも曹操とも旧知の仲だったようです。おそらくは遊侠の徒だった頃に親交を深めたのではないでしょうか。190年の反董卓連合が結成されるまでは、豫州沛国建平県の県長を務めていた人物です。劉の姓ですし、皇族・王族との血の繋がりもあったと思われます。
孫策との出世争いに勝つ
194年から195年にかけて袁術は三万石の兵糧供給問題から揚州盧江郡太守の陸康と揉め、戦いを仕掛けます。攻め手の大将は孫策(そんさく)、20歳。孫策も陸康には小さな恨みがあったそうです。呉書ではすぐさま打ち破ったとありますが、実は足掛け2年に及ぶ籠城戦でした。まあ、呉書が主君である孫氏を悪く書くわけがないので、誇張したのでしょう。時間かけ過ぎで、盧江郡太守の座は劉勲へ。どこかで盧江郡奪取の大きな武功を挙げたのだと思われます。袁術のコネだけではないはずです。20歳の戦好きの若造には太守の任はまだ時期尚早という判断だったのかもしれません。
袁術の軍を吸収合併
帝位を専称した袁術が199年に病死します。四方八方敵だらけの状態で亡くなってしまうわけですが、その後の袁術軍の兵士や袁術の妻子を引き継いだのが、盧江郡太守の劉勲です。劉勲が「奪い獲った」という記述もよくみられますが、呉書では、袁術の従弟の袁胤や娘婿の黄猗(こうい)らは曹操の脅威におびえて本拠地寿春の維持をあきらめ、一族郎党とともに南下し、盧江郡の皖城にいる劉勲のもとに身を寄せたとあります。困っているひとを見過ごせない性質(たち)だったのでしょう、劉勲は快く引き受けています。
劉曄を軍師に迎え、さらに勢力拡大
同時期、親交のあった皇族の劉曄が、揚州で勢力を拡大していた賊将の鄭宝を策によって討ち、その配下の処遇に困っていました。そこでお願いされて、劉勲はついでにみんな引き受けてしまいます。一気に劉勲の勢力は巨大になりました。くどいようですが、劉勲は困っているひとを見過ごせない性質(たち)だったのでしょう。
兵糧不足に泣く
当然のように慢性的な兵糧不足になり、みんなを養えません。泣くひとたちも増えてきます。そこで従弟の劉偕を豫章郡太守の華歆のもとへ兵糧の買い付けに行かせます。財はあっても米がないのがこのときの劉勲です。しかし、交渉は上手くいかず(豫章郡にも供出できる兵糧がなかったようです)、最終手段の攻め獲る手段を選びます。つまり戦争による問題の解決です。この選択が劉勲の運命を大きく変えることになります。
袁術の妻子を奪われる
豫章郡に攻め込むも何も手に入れられず(みんな逃げたから)、逆に黄祖を攻める手はずだった孫策・周瑜コンビに、これは好機と、空になった皖城を急襲され袁術の妻子はおろか、自分の妻子まで奪われます。そして帰路にあった劉勲は、彭沢(ほうたく)で孫輔と孫賁の兵八千に待ち伏せされ敗北するのです。孫策はこのとき、袁術の妻子、財宝とともに三万人に及ぶ技術者や音楽隊を手に入れました。まさに「濡れ手で粟」状態でウハウハの孫策です。劉勲は劉表を頼り、さらに曹操を頼って北上していきます。どんな思いで劉勲は盧江郡を去ったのでしょうか・・・。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
その後、劉勲は曹操から重く用いられ、列侯として軍議の場にも顔を出したようです。個性豊かで経験実績豊富な曹操配下のメンバーを前に、一体どんな顔をして参加していたのでしょうか。それに匹敵するような能力や人望を劉勲が有していたか、抱えていれば揚州攻略時に有利に働くと曹操がみたか・・・いや、曹操に見込まれたのですから、やはりきらめくものを劉勲は持っていたはずです。208年の赤壁の戦いでは名前が見えません。リベンジのチャンスなのになぜでしょうか。
きっと妻子を呉に人質に捕らえられていたからではないでしょうか。しかも主君筋の袁術の息子も娘も孫権に用いられているのです。仁義を貫くと出せない拳もあります。劉勲は少なくとも曹操が魏公となる213年までは生きています。北方で将軍として活躍していたのですが、侠人としての肌がぬけなかったのか、
食客の罪に連座して処刑されたそうです。おそらくは身内の難儀を黙って見過ごせなかったのでしょう。「泣く子を救おう」とする劉勲。袁術の妻子に対してもそうだったのではないかと私は思います。