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【第二Round】どちらが歴史に名を残したか対決「劉禅編」
秀秋は関ヶ原の戦いで歴史に名を残します。
さて劉禅は歴史に名を残したのでしょうか。
中国では劉禅の幼名である「阿斗(あと)」はアホ息子の代名詞となっているそうです。
このような人物が歴史に名を残したのでしょうか心配になってきました。
ですがちゃんと歴史書に彼の名が残っておりました。
正史「三国志」に記してある評価
陳寿が書いた正史「三国志」では劉禅の事を「後主(劉禅の事)は有能な宰相に
任せている時は、政治に乱れもなく道理に従った君主であるが、
宦官に惑わされてから、暗愚な主となった。
白い糸はどんな色にも染まるというが、その通りである」と記しており、
彼が愚かな行為をして蜀を滅ぼしたとは書いていないのです。
盧弼の評価
中華民国の学者である盧弼は劉禅アホ説を否定しております。
その理由は「劉備が亡くなる直前での、孔明との会話を記録している
書物があるが、この書物の中で孔明は「後主の知力は甚だ大きい」と
言っている。
孔明のこの発言は劉備に媚びへつらって発言したわけではなく、
劉禅は元々暗愚な君主ではない事を表している。」と残しております。
もしこの説が正しいとするならば、劉禅はかなりの役者ぶりです。
彼は政治に口出ししないのではなく、蜀の国力では魏の打倒は不可と考えており、
蜀の地を守っていた方が、蜀の人民と自分のためにも幸せであろうと考えた結果が、
政治に無関心なダメ君主を演じていたという事になります。
今回の勝負の結果は
さて今回の勝負の結果は劉禅の勝ちです。
その理由はこれだけ多くの人から評価をもらっている事です。
また暗愚な人物ではかった可能性を考慮して、彼の勝利にしたいと思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
劉禅はかなり暗愚な君主であると後世に伝わっておりますが、
実際はどうだったのでしょうか。
私もはじめ暗愚な君主でどうしようもない人物であると思っていました。
しかし最近いろいろ調べていると、
どうも彼は暗愚な人物では無いような気がしています。
もし本当に暗愚な人物であれば、孔明に国政を握らせる事もなく、
自分のお気に入りの人を丞相に任じればよかったわけですが、
そのような事を行いませんでした。
また孔明亡き後も、蒋琬や費禕らに国政を担当させたことで
蜀の国は安定します。
こうした結果を踏まえるとやはり劉禅は決して暗愚な君主ではないように
思われます。
陳寿も言っておりましたが、部下に有能な人材が国政を握っている時は、
問題のない君主であるが、無能な人間が国政を握ると国を滅亡させてしまう
ダメな君主になってしまうのです。
ですから彼が無能なのではなく、彼を補佐した人間が悪いのだと思います。
「今回の対決のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~。」
次回記事:【優劣対決】戦国武将小早川秀秋 VS 蜀の二代目皇帝劉禅一体どちらが優れていたのか。PART3