中国においては、あちらこちらで、事蹟を書いた石碑が出土します。
石碑ばかりではなく、青銅に記した金石文も、かなりの数に上ります。
では、それらは、どうして造られる事になったのでしょう?
え?造ったヤツの自己顕示欲?実は、そればかりではないのです。
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石碑があちこちに立てられた意外な理由は?
三国志の時代に限っても、例えば曹丕(そうひ)が文学論である
「典論」を石碑に刻んで、太学の中に設置したりしています。
それは、確かに自分の事蹟を後世に残して自慢したいという事もあるのですが、
同時にこれらの刻まれた文字は、その時代の書家の手によるものが殆どで
つまり、文字としても一流なのです。
例えば、鐘会(しょうかい)の父として知られる鐘繇(しょうよう)は、
書家として知られていて、彼が手がけた文は石碑に金石文として刻まれました。
それらは、書家を目指す人の手本になるもので、文人はこぞって
石碑のある場所に行き、金石文を紙に墨で写し取って手本としたのです。
間違えると、ただではすまない拓本の仕方
しかし、写し取ると言っても、石碑に墨をぶっかけて、
そこに紙を貼り付けるような乱暴な事は出来ません。
そんな事をしては、墨が溜まって文字が浅くなりますし、
第一、墨が乾くまでに上手く写す事が出来ないでしょう。
一般には、石碑の金石文を写すには、石碑のサイズにあう、
薄い紙か絹を用意して、ぴったりと張り付け、
つぎにその上から墨を含ませたタンポという器具で紙をなぞります。
これを上墨といいますが、こうすると石碑の凸は黒く凹は白くなって
現れ、文字が紙に綺麗に写し取られるのです。
このような方法で写し取った書を拓本(たくほん)と言います。
あの魚を釣った時に造る魚拓(ぎょたく)と大体同じ要領です。
ちなみにタンポとは、刀の手入れに使う、
あの綿毛のお化けのような器具の事です。
皇帝が書いた書は、持っている事がステータスだった
また、時代が下ると、名君で知られる唐の太祖、
李世民(りせいみん)が記した文を石碑に起こしたものなども出てきます。
例えば、晋祠銘(しんしめい)は、李世民が書いたもので
山東省の太原にある唐叔虞を祀った廟にあります。
李世民は名君として知られた人物で、書も玄人裸足という腕前です。
この金石文を写し取るのは、一種のスターのサインのような
人気があったようです。
時代が下ると、石碑も増え、スタンプラリーのような状態に
このような石碑は、戦乱で失われたり、長い間風雨にさらされて、
表面が磨滅するなどで次第に失われていきますが、
時代と共に、数が増える傾向にあり、そのような名筆家や、
偉大な帝王にあやかろうと、多くの文人が拓本を造っていきます。
転勤を繰り返す中央のキャリア官僚は、転勤の先々で、
石碑の拓本を取っていた筈で、さながら時間を掛けた
スタンプラリーのような状態になっていた事でしょう。
拓本を取った人々のお陰で現存する文もある
彼等、拓本マニアは、歴史を保存する上で重要な役割を果たします。
中国は戦乱の連続で石碑も多くは破壊されて、残っていない場合が多いですが、
拓本マニアが、細かく収集して写し取っていたお陰で拓本は残っています。
これによって、失われた石碑の文字は、拓本という形で保存され、
現代にまで残されているのです。
もしかしたら、石碑が残っている頃は、何度も訪れる拓本マニアで、
所有者は嫌な思いもしたかもしれませんが、今となっては、
そのマニアが失われた石碑の実在の証拠を残しているから複雑です。
三国志ライターkawausoの独り言
石碑は、歴史上の事実を記録する事、そして、記録を記した名筆家の
腕前を現代に伝え、さらには、拓本を通じて失われた石碑の文字を
現代まで伝えているという一粒で三度美味しい状態にあります。
こういう、貴重なモノを何らかの形で記録しておこうという
人間のマニア癖というのは、時代を超えても変わらないものですね。
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