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鍾会(しょうかい)ってどんな人?蜀を滅ぼして独立を目指した男

この記事の所要時間: 546

鍾会

孔明死後の三国志というのは、極端に知名度が落ちる傾向にあります。

しかし、その中でも天下統一のエネルギーと各武将の野望は渦巻いていました。

 

今回は、その中から、蜀漢の討伐後に独立しようとした

魏将の鍾会(しょうかい)を紹介します。

 

 

魏の重臣、鐘繇(しょうよう)の子として若くして出世する

 

鍾会は西暦225年に魏の重臣である鐘繇の息子として生まれます。

鐘繇の母は教育熱心で4歳の頃から鐘会に「孝経」を読ませて暗誦させ

また、論語、詩経、易、春秋左氏伝など沢山の本を買い与えます。

 

5歳の時の鍾会を見た蒋済(しょうさい)は、「並はずれた人物」と鍾会を評価しています。

すでに、こんな小さい頃から鍾会には非凡な才能があったのです。

 

15歳で太学に入ると、鍾会の母は教える事もなくなり、

これからは自分で勉強するように言いました。

この頃になると学識で並ぶものなしという秀才になり、20歳では出仕

才略と技能にすぐれて博識である事からとんとん拍子で出世します。

 

司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)に重用されるも陰険な一面も・・

 

鍾会は曹芳(そうほう)時代に、秘書郎(ひしょろう)に任ぜられ

次には尚書中書侍郎(しょうしょ・ちゅうしょ・じろう)に昇進し

曹髦(そうぼう)時代になると関内侯の爵位を貰っています。

 

魏王朝の実力者である司馬師・司馬昭に重用され相次ぐ魏の重臣の叛乱、

(毌丘倹(かんきゅうけん)文欽(ぶんきん)乱)の鎮圧に参謀として参加して

知略を奮い西暦257年の諸葛誕の叛乱では再び参謀として軍事を取り仕切って

諸葛誕の救援の呉の全懌(ぜんたく)を策略で逆に魏に帰順させ勝利に貢献します。

 

当時の魏の人々は鍾会を漢の高祖の軍師の張良のようだと称えたそうです。

 

一方で鐘会は、陰険な策略で他人を追い落とす事も辞さない、

非情な一面も持っていました、嵆康(けいこう)も鐘会に讒言されて殺された1人です。

 

野望を膨らませる鍾会

 

そんな鍾会は、自分の才能を誇り誇示する所がありました。

友人傅嘏(ふか)にも、「お前は才能と野望が釣り合わないから自重しろ」

と注意されていますし、司馬昭の妻の王元姫(おうげんき)は仕官した鐘会を見て、

 

「鍾会は利ばかりを見て、義を忘れ何でも自分でやりたがる人です。

あまり重く用いると必ず公私の区別を無くし禍を起します。

大事な任務では使わないように」と夫に忠告したそうです。

 

 

司馬昭、鍾会を大将軍にして蜀を攻めさせる

 

しかし、司馬昭は妻の忠告を本気にはしなかったようです。

西暦263年、蜀の国力が姜維(きょうい)の北伐の失敗と段谷(だんこく)の戦いの

大敗により衰えたとみた司馬昭は、蜀の地形を調べ抜いて、

鍾会を鎮西(ちんぜい)将軍・仮節(かせつ)・都督関中諸軍事

(ととくかんちゅうしょぐんじ)に任命して10万の大軍を与えて蜀に進攻させます。

 

実際には、魏将鄧艾(とうがい)にも3万、そして諸葛緒(しょかつしょ)に

3万の軍勢が与えられて別方向から蜀に進撃しているので

魏の総勢では16万の軍勢になります。

 

鄧艾と諸葛緒は、蜀の重鎮である姜維を攻撃する為に動き、

鍾会は天然の要害である漢中に進軍します。

 

劉禅(りゅうぜん)は宦官、黄皓(こうこく)の占いを信じて援軍要請を無視

劉禅

 

姜維は援軍を要請しますが占いに凝っていた宦官黄皓は、

援軍要請を無視するように劉禅に進言し、劉禅は援軍を送りませんでした。

これにより、姜維は自分の手勢だけで鄧艾、諸葛緒と戦う羽目になります。

 

ようやく蜀の領地に魏軍が入ってから張翼(ちょうよく)、廖化(りょうか)を

派遣しますが、時は既に遅く姜維は剣閣まで後退して援軍と合流する有様でした。

 

しかし、剣閣は天然の要害でした、同じく鄧艾と諸葛緒と合流した鐘会ですが、

どんなに頑張っても、剣閣を落す事が出来ず、一時は補給を心配し撤退を考えます。

 

関連記事:実子劉禅(りゅうぜん)と養子劉封(りゅうほう)の明暗

関連記事:蜀滅亡・劉禅は本当に暗君だったの?

関連記事:人々の鑑になった良い宦官達

 

鄧艾が剣閣を迂回する命懸けの策を提案

 

鍾会は撤退を考えますが、それに鄧艾がストップを掛けます。

 

「剣閣(けんかく)では苦労しているとは言え蜀兵の士気は低く我が軍は士気旺盛です。

この勢いを殺す事なく別働隊を組織して剣閣を迂回して

陰平(いんへい)より横道を通って漢の徳陽亭を経て涪(ふ)へ向かいましょう。

さすれば、剣閣から百里、成都から三百余里の地点に出ることになり、

奇兵で敵の中心部を衝く事になります。

 

驚いた劉禅は必ず姜維を剣閣から呼び戻す筈ですし、

仮に呼び戻さないとしても涪に対応する兵力は少なくてすみましょう」

 

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