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武帝時代の騎馬隊の攻撃方法
さて春秋戦国時代の武霊王(ぶれいおう)の時代には、
馬に乗って弓で攻撃を仕掛ける方法が取られておりました。
では武霊王から百年程の時が流れている武帝の時代にはどうだったのでしょうか。
武帝の時代もあまり武霊王と変わらず馬に乗った
騎馬隊が弓で敵に攻撃を行う方法が取られていました。
ですので百年経っても騎馬隊の攻撃方法は変わることはありませんでした。
三国時代の騎馬隊はどうなのでしょうか
さて武帝の時代から数百年が流れ後漢王朝も形だけとなった群雄割拠の時代。
曹操や劉備などの群雄はどのように騎馬隊を運用していたのでしょうか。
騎馬隊の攻撃方法に進歩なし
三国志の時代になっても騎馬隊の攻撃方法は、
武霊王や武帝の時代の攻撃方法と進歩することなく、
弓で敵軍に攻撃する方法が取られて降りました。
その為この時代にアニメや漫画などで描かれている武将同士が馬に乗って矛を激しく振り回して、
一騎打ちを行う姿はフィクションと言える想像の戦いでした。
なぜ一騎打ちができないのかというと馬上では踏ん張りが聞かす道具が開発されていないため、
もし裸馬に乗って矛を振りますような事をすれば振り落とされてしまいます。
そしてそのまま名もない兵士に首を取られてしまうことになるでしょう。
匈奴は騎馬隊に乗って槍や矛を振り回していた
中華の人々は騎馬に乗ることができましたが、
騎馬隊の攻撃方法は弓で攻撃をする限定的な使用方法しかできませんでした。
その理由は馬に乗る技術に習熟していなかったためです。
では三国志や武帝の時代には、
騎馬に乗って矛や槍を振り回して戦うシーンはなかったのでしょうか。
そんなことはありません。
匈奴や北方の遊牧民族達は子供の頃から裸馬に乗って草原を駆け巡っており、
裸馬に乗る技術も相当に高いものでした。
その為彼らの主力部隊である騎馬隊の兵士達は騎射はもちろん、
馬に乗って槍や矛を振り回して戦うことは朝飯前でした。
匈奴から騎兵を雇って軍勢に加えていた
漢の武帝は自分の国で騎馬隊を作るために養成しておりましたが、
匈奴や北方の遊牧民族らの兵士達を雇用して軍勢に加えておりました。
曹魏も中華の北方を領土としていたこともあり、
南匈奴や鮮卑などの異民族の騎馬隊を雇用して自分の軍勢に加えて、
蜀や呉の軍勢との戦いに用いておりました。
いつごろから矛や槍を馬上で振るっていたの
実際に騎馬隊が馬上で矛や槍を使って敵軍へ攻撃できるようになったのは、
いつごろからなのでしょうか。
まず馬上で踏ん張りを効かすための道具である鐙が開発されたのは三国が統一された
晋の時代からだそうです。
しかしこの時代の鐙は馬に乗りやすいようにするための道具で片方だけしか、
鐙を取り付けることをしませんでした。
その後4世紀に入ると鐙は馬の両側に取り付ける道具へと発展したことがきっかけで、
馬上で矛や槍を振るって攻撃を行う重装騎兵が誕生。
機動性と攻撃力両方を兼ね備えた騎馬隊が完成することになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
騎馬隊が本格的に馬上で矛を振りますような戦い方を実現させたのは4世紀の中国になるまで、
待たなくては行けません。
ではなぜ三国志のアニメや漫画で馬上で一騎打ちを行うシーンが頻繁に登場することになるのでしょうか。
その原因は三国志演義を書いた羅貫中(らかんちゅう)にあります。
彼は元帝国の末期から明初頭の人物です。
彼が活躍していた時代は騎馬隊は普通に軍隊の中で運用されていた事が原因で、
三国志演義にも騎馬に乗って矛や槍を振るって縦横無尽に戦場を駆け巡る騎馬隊の姿を
書いてしまったのではないのでしょうか。
その為アニメや漫画を描く際三国志演義をベースにしているのであれば当然馬上で、
矛や槍を振るって戦う姿が描かれていてもおかしくないと言えるのではないのでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ
次回もまたはじさんでおあいしましょう
それじゃあまたにゃ~」
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