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この記事の目次
周公旦の悪口を言いふらす
武王の弟達は周公旦と召公奭が政治の実権を握っていることが許せませんでした。そこで彼らはまず周公旦の悪口を成王に言った後、各地の諸侯に周公旦の悪口を言いまくります。こうして周公旦に不満を抱いた諸侯と武王の弟達は、連合して周公旦に対して反乱を決行。しかし周公旦は彼らの反乱軍を見事に討伐して、戦乱が広まる前に鎮圧に成功。その後成王が幼少であったこともあり、召公奭と二人で政権を運営していくことになります。
周公旦の治世とは?
成王が幼いため周公旦(しゅうこうたん)と召公奭(しょうこうせき)は二人で、色々と政権運営が安定して行くには周王朝に何が必要であるか検討。その結果秩序が必要であることがわかります。彼はまず礼制(れいせい)と言われる制度を確立します。この制度は日常的な礼儀を民衆や諸侯に行わせることで、国の秩序を形成していきます。また周は諸侯の力を借りて殷王朝(いんおうちょう)を倒した為、秦王朝や漢王朝など中央集権制ではなく、地方分権制度によって天下を収めていくことになります。
周公旦は殷を打倒した際、諸侯へ領土を与えると共にその領土に対して自治権を付与。こうすることによって諸侯は周王朝に忠誠を尽くしておれば権力を維持することができ、周王朝も諸侯に対して領土を上げる事によって政権を維持していくギブアンドテイクの関係性によって王朝を安定させる計画を実施していきます。これらの政策を実施していくことで、周王朝は初代の武王亡き後も大きな混乱もなく政権を安定させることに成功します。
悪口の嵐
周公旦は政権を安定させるため召公奭(しょうこうせき)と共に幼い成王の後見人として周の政治を行っておりました。しかし周公旦が政権を運営していることに苛立った武王の弟達が、諸侯に周公旦の悪口を言いまくって反乱。周公旦はこの反乱を2年間の月日をかけて鎮圧します。その後召公奭が亡くなると周公旦が成王の後見人として、政権を運営していくことになります。すると今度は諸侯から「周公旦は王の座を奪おうと考えているのではないか」と悪口が出てきます。この悪口を聞いた成王も周公旦に悪感情を持ち始めます。成王にも疑われるようになった周公旦は周の国から楚の国へ亡命することになります。
楚へ亡命する
成王は周公旦の罪状を調べるため彼の家を家宅捜索します。すると武王の病気快癒を祈祷した際の祭文を発見。成王は周公旦がこの祭文に武王の悪口を書いているのであろうと思い、この祭文を開きます。祭文には「王を天の決定により病になったのであれば、全ての責任は私にあります。どうか私に罰を与えて王の病の回復をしてくだされ」と書いてありました。この祭文を読んだ成王は涙を流して感動します。
そしてすぐに楚の国に亡命している周公旦へ「旦よ。周のために色々と尽力してくれた忠臣に対して大変申し訳ないことをした。許してくれと言える立場ではないが、どうか周に戻ってきてくれないであろうか。」と謝罪の手紙を送ります。周公旦はこの手紙を見てすぐに楚を出て国へと帰ります。こうして国に帰ってた周公旦は再び政権の運営者として活躍することになります、
王として埋葬する
周公旦は周王朝の政権運営者として再び活躍することになるのですが間も亡くなってしまいます。彼は亡くなる前に成王に「私は成王を守るために都である洛陽に葬って欲しい」と懇願。
しかし成王は「あなたを臣下として葬ることはできない。王と同様の格式で葬るのが礼にかなっているであろう」と言って聞かず、周公旦が亡くなると周王朝の創始者である武王のとなりに埋葬します。
周王朝ライター黒田廉の独り言
周公旦がなぜ理想のNo.2に当たる人物なのでしょうか。彼は武王が亡くなると周王朝の政権の中で人望・実力共に成王を凌ぐ実力者でした。その為彼が本気を出していればトップに立つことも容易でした。しかし成王が成長して政治の舵取りを行うことができると判断してた周公旦は、政権の実権を成王へ返して、自らは臣下として成王に仕えております。この点が周公旦を理想と言える№2として評価されてる点であろうと考えます。
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