三国志の時代の遺物としては、武器、鎧、城郭、宮殿等は割に情報があります。一方で名もなき庶民の生活については、記す価値がないとされ、当時を生きた庶民も、当たり前の生活を記録に残そうという発想も無ければそれを成す時間もありませんでした。
そこで、「無いなら断片情報を集めて作成してしまえ!」という視点から、『はじめての三国志』では、文献や墳墓の磚画を参考に三国志の当時の庶民の住宅を再現してみましたよ。
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この記事の目次
当時の建築は、版築と日干し煉瓦の二段構え
中国の建築物の基礎は、庶民の家だろうと宮殿だろうと版築工法で造られます。版築(はんちく)とは、四枚の板で枠を造り、その中に土を入れて大勢が足で踏み締めて体重を掛けて固める方法です。
土が固まると、さらに上に板を並べて土を入れ踏み固めていき、これを繰り返して建物の基礎を造り上げます。こうして、土台が出来るとその上に建物の壁を造りますが、こちらも半分程度までは版築工法を使用していきます。
そして、半分から上は泥煉瓦を積み上げて作成していきます。お金持ちは焼いた煉瓦でしたが、一般庶民は天日乾燥しただけの煉瓦を自作して積みあげていたようです。壁が出来ると、天井の泥煉瓦に垂木を渡して、交互に組み、上に葦(あし)の束を乗せ、短く刻んだ藁(わら)を混ぜた泥を被せて屋根を葺きます。
蛤を焼いて白くした粉を泥壁に塗って補強する
このままでは、壁は泥の色であり、あまり外観が良くありません。そこで、漢の時代は、蛤(はまぐり)の貝を焼いて白い粉末にした
叉灰(さはい)というものを外壁と内壁に塗って建物を白くしていました。この時代の建物の壁の白いのは、蛤の貝殻の灰のお陰だったのです。
住居は、台所である土間と部屋に分かれていた
さて、ここでお馴染み、はじさん謹製イラストの登場ですが、イラストの通り、漢の時代、台所と部屋とは分かれていました。それは、台所が水を使う場所であり、竈の煙や湿気とは切っても切れない場所だったからです。
煙の問題があったからか、台所の壁は前面が開け放たれ、奥の方には、三角の出入り口があります。
どうして上が尖っているのか?分かりやすい解説は無いのですが、恐らく、これは四角に戸を穿つと泥煉瓦の強度の問題で戸が崩れる恐れがあり、敢えて、三角にして左右の壁の力で戸を補強しようとしたのではないか?と考えています。
この上部が三角の出入り口を閨竇(けいとう)と言い篳門(ひつもん:粗末な門)とあわせて篳門閨竇と言い、みすぼらしい、あばら屋の代名詞になりました。
部屋の前にある扉は枢(とぼそ)と言います、貧乏な家庭では、扉が買えず縄を垂らしていたようであり、縄枢(なわとぼそ)と言い、これもあばら家の象徴でした。
竈(かまど)には、外に向かって煉瓦のダクトが伸びていた
台所では火吹き筒で火を起こしている人がいます。竈には、羽釜と甑(こしき)をセットする大きな穴と、羹を煮炊きする小さな穴が二つ開いていたようです。
甑は、つまりは蒸し器であって、羽釜には水を入れて火で温め、その上に甑をセットし甑の中に竹すのこを敷き、米や黍、麦などを乗せて蒸気で蒸していました。
漢の時代は羽釜も土器が多く、穀物を現在のように炊くと、火加減が難しく羽釜が焦げてしまうので、必然的に穀物を蒸して食べるようになったと考えられています。
外に向かっては、煉瓦で造ったダクトが伸びていて、換気には配慮されていましたが、今のように送風装置はないので煙が逆流したり、盛大に火を燃やすと換気が間に合わず火がダクトを通過して屋根が火事になるケースもありました。
当時の庶民の家の間取りはどうだった?
漢の時代の豪族の家は記録にありますが、では庶民の家の間取りは、どうなっていたのでしょう?
それを示す手掛かりとしては秦の時代の窃盗事件の記録が参考になります。
その事件は、夜中、家の裏の小路に面した兵士宅の土塀を何者かが乗り越えて侵入、東西に並んだ南向きの部屋の一室で家主夫婦が寝ているのを素通り、もう一部屋の土間から侵入すると土間の土壁に穴を開けて、隣の部屋の竹製の床几(しょうぎ:ベッド)の上にあった新調した綿入りの衣服を持ち去って逃げたというものです。
ここから見ると、兵士の家のような庶民層の家でも、防犯の為に乗り越えられる程度ながら土壁を張り巡らせていたのが分ります。そして、東西に並んだ南向きの部屋の一室に兵士夫婦が寝ていて、隣にも部屋があった事が判明します。
泥棒は、隣の部屋の土間から侵入しているという事は、土間は台所で前面に壁がないという事を意味していて、穴を掘って、隣の部屋に侵入したという事は当時版築の壁は薄く人が手で掘って穴が空くレベルだという事を教えています。
これらを総合すると、当時の庶民の家屋というのは、以下のはじさん謹製イラストのようになると思います。背後にある黒い部分は、当時の豚小屋兼トイレの様子です。当時の豚小屋は穴を深く掘り、そこに豚を放していました。ちなみに穴に渡してある二枚の板はトイレです。
見るからに落ちそうで危ない感じですが、実際に板を踏み外し、死んだ晋侯という殿様の記録もあります。晋侯のトイレは豚小屋兼用では無く、深く掘った穴に便器を埋め込んだモノでしたが、上に板を渡したのは一緒だったようで腹痛に慌てた晋侯は足を踏み外したようです。
※すっきり分かる 三国志の時代のトイレはどうなっていたのか?↓
当時の庶民の家の室内はどうなっていたのか?
では、当時の庶民の部屋にお邪魔してみましょう。こちらも、はじさん謹製イラストを元に説明していきますね。
まず、壁には、丸い窓があります、当時これを牖(ゆう)と言い一つの部屋に二箇所、穿たれて採光と換気の役割を果たします。窓は、外壁を造る段階で甕を壁に嵌めこんで、完成してから、甕底を砕いて形を整えて作っていました。
中国家屋には丸い窓があったりしますが、それは甕を嵌めこんで窓を造った名残りかも知れません。ただ、漢の時代、甕製の窓は、みすぼらしい住宅の代名詞でした。
当時、王侯貴族の宮殿では、窓ガラスがありましたが、
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庶民には手が届く代物ではなく、雨が降れば戸を締め切り昼間でも、灯が無いと真っ暗という状態でした。
床には、筵を敷き、座るには席を勧めた
漢の時代には、一般には椅子もテーブルもなく、人々は土間に直接に座っていました。元々、椅子もテーブルも西域の遊牧民族からの伝来なのです。
しかし、土間は叉灰で白く葺いてあるとは言え土っぽく、、冬は心底冷えるという欠点もありました。そこで、土間には筵を敷いて直に地面に座る事を避け、また、それだけでは薄いので、座という縁取りがされたゴザのような敷物を用意してこの上に座っていたのです。イラストの客人が座っているのが座という事になります。
ですから当時は、部屋に入る時に履物は脱ぐのが常識で、礼記にも、その事が記録されています。
主人が据わっているのは、床几(しょうぎ)と言い、眠る時にはベッドになるものです。今の感覚だと、ベッドに座って客と話すのは行儀が悪いですが、床几は寝具だけの位置付けでは無かったようなので、特に非礼というわけではありません。
床几の背後にある白いのは屏風で、部屋の仕切りが無かった当時は、屏風を仕切り替わりにしてプライバシーを保ちました。恐らく、この屏風の背後には、客人に見られては恥ずかしい物があったのかも知れません。
背後にある、つづらようなものは、箪(たん)と言います。今のような引き戸付きのタンスが存在しない漢の時代には、この箪に持ち物を入れていました。本来、箪は丸いのですが、画像からは伝わりにくいと思います。部屋の片隅にあるのは、食物や食べ物を入れる容器です。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?文献と磚画を元に推測を交えながら、三国志の時代の庶民の家を描いてみました。こうして見ると、当時の中国人の生活は、現在のそれと大分違うという事が分ると思います。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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