島津四兄弟の長男として島津家を引っ張って行くことになった島津義久(しまづよしひさ)。彼は優秀な弟達と役割を分担して九州制覇戦へ望んでいきます。
義久と三男・歳久は主に島津家の内政や外交を担当していきます。次男義弘と四男家久は戦を担当し、島津家に敵対する勢力を討伐する役目を果たしていきます。
今回は島津家の九州制覇戦の内面を支えた島津家当主・島津義久についてご紹介します。
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この記事の目次
父の跡を継いで三州統一戦を引き継ぐ
島津義久は父・貴久(たかひさ)の跡を継いで島津家当主に就任。
義久は父・貴久の宿願であった薩摩(さつま)・日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)の三州攻略を果たすため、宿敵である伊藤氏との戦いに明け暮れます。そんな中伊藤軍が島津家の本拠地である薩摩へ大軍を率いて攻撃を開始。
九州の桶狭間で大勝利!!
伊藤軍が島津の領内に侵入したことを知った義久の次男である義弘は、数百といった少ない人数で伊藤軍を追い払うために出撃。少数の義弘軍は大軍である伊藤軍を伏兵を用いて打ち砕きます。島津家はこの戦いに勝利したことによって、三州統一戦は一気に加速していきます。
島津の運命を変えた一戦「耳川の戦い」
島津家は伊藤氏に大勝利を収めたことで一気に薩摩を統一し、大隅に割拠している豪族を降伏させ、日向にいる伊藤氏の勢力を駆逐することに成功。
伊藤氏の当主は島津に日向を奪われたため、九州最大の勢力である大友家に助けを求めます。大友家の当主である大友宗麟(おおともそうりん)は伊藤氏のお願いをきいて、島津討伐へ出陣します。
このとき宗麟が島津討伐に率いていた人数は、50000人と言われる超大軍を引っさげての出陣です。義久は大友軍が出陣したことを聞くと義弘・家久・歳久の兄弟達や重臣達を先鋒へ遣わし、自らは後詰として数万人の人数を率いて出陣します。
この戦いの詳細は後日紹介しますが、義弘やヒューマンキラー家久らの釣り野伏せの戦法によって大友軍に甚大な損害を与えて、大勝利で幕を閉じます。この戦いの勝利をきっかけに義久は九州制覇戦へと乗り出すことにします。
くまさんとの激戦「沖田畷の戦い」
島津家が耳川の戦いで大勝利を収めたことによって、九州は二強時代に入ります。島津家がその一強ですが、もう一つの九州最大の勢力は肥前のくまさんこと龍造寺隆信です。
彼は大友家が島津軍に敗北したことを知るとすぐに大友家に攻撃を仕掛けて、領地拡大を行います。その結果、島津VSくまさんの二大対立時代に突入することになります。そしてついにこの二大勢力の決戦が開始。
両者は沖田畷(おきたなわて)と言われる地で決戦を行います。龍造寺軍はもちろんくまさんである隆信が出陣し、龍造寺軍の諸将には龍造寺四天王と言われる豪傑・勇将揃いの将軍と精強な大軍勢で、島津軍に襲い掛かります。
対する島津軍はヒューマンキラーである島津家久が、お得意の釣り野伏せの戦法を使用して、バッサバッサと敵将を討ち取って大勝利でこの戦いも収めます。
こうして九州地方最大の勢力であった龍造寺に圧勝したことで、九州は島津一強時代に突入します。
九州統一に王手をかけるも・・・・
大友・龍造寺に大勝利を収めた島津。当主義久はこのチャンスを逃さす、島津家に抵抗している豪族や大友の残党軍を討伐して、一気に九州を統一するべく各地へ攻撃を開始します。
その結果、九州地方の大半を島津家の色に塗り替えることに成功しますが、ここで義久の想定外のことがおきます。
それは天下人・豊臣秀吉が大軍を引き連れて攻撃を仕掛けてくることでした。数回に渡って豊臣家から九州地方で戦を止めるようにと命令がきますが、島津家はその命令を無視して九州統一を急ぎます。
自分の命令が無視されたのと大友家当主である宗麟からの数度の救援依頼などがきっかけで、秀吉は島津討伐を決意。
先遣隊として仙石秀久(せんごくひでひさ)を総大将にして、四国の軍勢を中心とした軍勢を派遣します。義久は秀吉の軍勢が海を渡って豊後へ上陸したことをするとすぐに弟達に迎撃を命じます。
義弘・家久や重臣達は四国の軍勢が戸次川へ到達すると必殺の釣り野伏せの戦法を駆使して、秀吉軍に大損害を与えて追い返します。義久は秀吉軍はたいしたことないと考え、秀吉軍の本軍が到来する前に九州を制覇するべく諸将へ激励を飛ばします。
夢と散った九州統一
豊臣の本軍が到来すると義久は島津軍の本体を引き連れて迎撃を行います。だが豊臣家の圧倒的な物量に無敵の島津四兄弟も手も足も出ずに各地で敗北。
このままでは島津家が豊臣家によって滅亡することを感じた義久は、頭を丸めて出家し、豊臣家に降伏することを決めます。義久は秀吉に頭を下げて謝罪した結果、降伏が受け入れられることになります。こうして島津義久や弟達の夢であった九州制覇の夢は儚くも散ってしまうことになります。
戦国史ライター黒田廉の独り言
島津四兄弟は非常に結束力の高い兄弟で、彼らが結束して義久を支えて戦いを継続したからこそ、各地の激戦で勝利を重ねることができたのでしょう。
その結束力を高めたのは義久の青年時代が由来でした。義久は3人の弟達を連れて、馬を見に行きます。すると三男の歳久が「馬も母に似て毛並みが一緒ですね。人間もやっぱり母に似るのでしょうね」と述べます。
歳久は末弟である家久が3人の兄弟とは違う母親から生まれていることを知っており、それを家久に当てつけるためにこのような発言をします。この事に気づいた義久は「確かに母親に似る面もあるだろう。しかし一概に母に似ているとは言えまい。そんなことよりも、武を磨き、徳を磨きいていくことの方が、母や父に似ていることよりも重要だろう。」といいます。
家久は自分をかばってくれた義久の言葉をきいて一念発起し、武と書物を一生懸命磨き、名将として成長することになるのです。またこの義久の言葉を聞いた義弘と歳久は家久が違う母から生まれたことを差別することなく扱い、仲睦まじく成長していくことになるのです。
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