仙石秀久とはどんな人?人生をV字回復させた不屈の戦国大名【年表付】

2020年7月25日


 

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センゴク amazon

 

仙石秀久(せんごくひでひさ)の名前は宮下英樹(みやしたひでき)の漫画「センゴク」のお陰でメジャーになっていて、その生涯もよく知られています。

 

仙石秀久

 

仙石秀久の凄さとは、一度大名になってチョンボして浪人になりながら再奮起して大名に返り咲くというミラクルを実現した事でしょう。シューティングゲームの如く、一度()ちたらゲームオーバーが普通の戦国において、諦める事なく再起した仙石秀久の生涯を解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天文21年1月26日美濃国に生まれる

鎧兜姿の斎藤道三

 

仙石秀久は、天文21年(1552年)1月26日、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛(せんごくじへえひさもり)の四男として美濃国賀茂郡黒岩村(みののくにかもぐんくろいわむら)に誕生しました。四男坊の秀久には家督相続の可能性が低く、親交があった越前国の萩原国満(はぎわらくにつな)の養子になっていましたが、隣国の織田家と斎藤家が激しく争い、仙石家の嫡男が相次いで討死する事態になり、久盛から美濃に呼びもどされ家督を継ぎます。

織田信長

 

仙石秀久は、永禄(えいろく)7年(1564年)14歳で織田家に入り、17歳の時に美濃稲葉山城が陥落した時に織田信長の目に留まり、羽柴秀吉の与力として配属され、以来、秀吉が死ぬまで子飼いの家臣として活躍を続ける事になりました。

 

近江国野洲郡千石の領主となる

 

永禄11年の織田信長の上洛後には、羽柴隊の馬廻衆(うままわりしゅう)として各地を転戦、元亀(げんき)元年(1570年)の姉川の戦いで浅井方の山崎新平(やまざきしんぺい)を討ち取りました。

 

改選仙石家譜(かいせんせんごくかふ)には、これ以上の記録がなく、山崎なる人物の身分などは不明ですが、天正2年に近江国野洲郡1000石を与えられている事から、それなりの名のある人物だったのでしょう。

 

領主となった秀久は、身を固める必要に迫られ、羽柴家の黄母衣衆の一員である野々村幸成(ののむらゆきなり)の娘を正室に甲斐(かい)の浪人の娘とされる慶宗院(けいしゅういん)を側室に迎えてウヒョりまくり、10男6女を儲けました。

 

はじめての戦国時代

 

中国攻略・淡路遠征で4000石に加増

豊臣秀吉に出世争いで負ける明智光秀

 

その後、羽柴秀吉が明智光秀(あけちみつひで)との出世レースに勝ち、中国の毛利征伐を命じられると秀久も従軍して天正6年(1578年)に4000石に加増。

 

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

翌天正7年には茶臼山城(ちゃうすやまじょう)を任され、赤松峠を越える播磨道の警護に当たり、三木合戦で秀吉が三木城を包囲していた時には、湯の山街道や有馬温泉を統括する奉行を命じられ完璧な身辺警護と補給の円滑化に功績を挙げました。天正9年、毛利方の菅達長が守る淡路島の北端岩屋城攻めに参加し黒田官兵衛等と岩屋城や由良城を陥落させています。

 

本能寺の変後淡路を平定し淡路国5万石の大名になる

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

天正(てんしょう)10年(1582年)6月に本能寺の変が勃発すると、羽柴秀吉が中国大返しで、明智光秀と山崎の戦いを続ける間、秀久は淡路で明智光秀方についた豪族の討伐に貢献。

 

清須会議に参加する池田恒興 柴丹羽長秀、羽柴秀吉、柴田勝家

 

その後、清須会議を経て、天正11年4月、秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)の間で賤ヶ岳の戦いが起こると、秀久も羽柴秀勝(はしばひでかつ)とともに十二番隊の将として参戦する予定でしたが、秀吉の命令で長宗我部氏の抑えとして近江から淡路へ向かう命令を受け、四国で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と激闘します。

長曾我部元親(長宗我部元親)鳥なき島のコウモリ

 

しかし、戦いは長宗我部元親が上手で、次々と城を奪われ拠点であった引田城も失い、秀久は幟を奪われる大失態を演じて淡路島に逃げます。ところが転んでもただでは起きない秀久は、以後は厳重に守りを固めて淡路島と小豆島を守り瀬戸内の制海権を維持して四国勢を牽制しました。

 

戦場で活躍する仙石秀久(家紋付き)

 

秀久は、淡路平定の軍功を評価され淡路国5万石を拝領して大名となり洲本城を本拠とします。その時、秀久は31歳、豊臣恩顧の部将では異例のスピードでの国持ち大名への昇進でした。

鉄甲船

 

淡路受領後の秀久は、淡路水軍、小西行長(こにしゆきなが)石井与次兵衛(いしいよじべえ)梶原弥助(かじわらやすけ)などの複数の水軍を統括して、紀州征伐では湯川一族討伐で功績を挙げ、さらに因縁の四国攻めでは喜岡城を攻略、木津川攻めで城の要を抑えて城内の水源を断つなど奮戦しました。四国平定の功績から、秀久は讃岐一国12万石(内2万石は十河氏)を与えられ、聖通寺城、或いは高松城に入城します。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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