2017年のNHK大河ドラマは、女城主直虎(なおとら)です。
近年は、大河ドラマも女性を主役に据えたものが多く、
例えば吉田松陰(よしだ・しょういん)の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主役にした
「花燃ゆ」や幕末から明治の世の中を駆け抜け幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれた
会津女性、新島八重(にいじま・やえ)を主人公にした「八重の桜」、
また、幕末物では異例の高視聴率を記録して女性を主役にしたNHK大河ドラマの
先駆けになった「篤(あつ)姫」などがあります。
女城主、直虎も、このようなNHK大河ドラマの系譜を継ぐ
強くしなやかな女性主人公なのですが、戦国時代強い女性だったのは、
なにも、直虎だけでは無かったのです。
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この記事の目次
戦乱の時代、夫の留守を守り家政の切り盛りをした女達
戦国時代は、ひっきりなしに戦争が起きていて、男が遠征で家を留守にする事も
多かったので、女性が留守中の家政を取り仕切るのが普通でした。
籠城戦ともなれば、武家の妻は女衆を指揮して負傷者の手当てをし、
食事や飲み物の世話をしたり、旦那が獲った敵将の首に化粧を施して、
少しでも地位が高い武将に見せるなど、血を見た位で倒れてはいられなかったのです。
必然的に、物事に動じない強い女が求められるようになり、
男顔負けの女傑が出現する、そのような風潮が出現したのでした。
独眼竜の母は、戦国大名の兄にも頼られた女傑
さて、女城主直虎同様に、NHK大河ドラマになり歴代最高視聴率を叩き出した
「独眼竜政宗」こと伊達政宗(だて・まさむね)ですが、彼の母も彼に劣らぬ女傑でした。
その名を義姫(よしひめ:1548~1623)と言い、出羽国の戦国大名、
最上義守(もがみ・よしもり)の娘です。
彼女は、16歳で当時、最上氏と対立していた伊達輝宗(てるむね)に嫁ぎます。
その2年後、18歳で義姫は妊娠し男子を産みました。
幼名、梵天丸(ぼんてんまる)こと後の戦国大名、伊達政宗です。
得意技は駕籠で戦場に飛び込み停戦させる事、義姫のエピソード
義姫は、最上家を継いだ、兄、最上義光(もがみ・よしあき)と大変に仲が良く、
嫁いでからもこまめに手紙のやり取りをしていました。
1578年、上山城主、上山満兼(かみのやま・みつかね)が伊達輝宗と連合して
義姫の兄、最上義光を攻め義光は不利な戦況に陥った事がありました。
「大変!兄様をお救いしなくては」
兄の危険を察した義姫は、家臣が止めるのも聞かずに家を飛び出し、
駕籠で伊達陣営に乗りつけると夫に猛抗議をして撤兵させました。
まさに、義光は妹さまさまで首を繋いだ事になりますが、そのような事で
義姫は最上氏、伊達氏に一定の影響力を発揮するようになります。
義姫、大崎合戦で再び、駕籠で戦場に飛び込む
1584年、伊達政宗は、父、輝宗の隠居に従い、家督を継ぎます。
翌年、輝宗は二本松義継(にほんまつ・よしつぐ)により拉致され、
政宗に義継ごと射殺されました。
これは、人質にされた輝宗の迂闊さが問題で、やむを得ない措置でしたが
夫を息子、政宗に殺された義姫は「わざとではあるまいか?」という
疑念を深めるようになったようです。
政宗には、早くから奥羽制覇の野心があり、母方の最上家と関係がある大名でも
遠慮なく攻撃を仕掛けていきます。
伊達家も最上家も大事な義姫は、息子の政宗の態度に不満を募らせます。
それに触発された最上義光も領土拡大を続け、1588年、政宗が大崎氏を
攻めた時には、大崎氏の分家に当たる最上義光も出兵します。
この戦いでは、伊達側の参加豪族に足並みの乱れがあり、悪天候も禍いし
伊達軍が大崎連合軍に包囲され、政宗は窮地に陥ります。
「これは大変!我が子を殺すわけには参りませぬ」
義姫は、再び城を飛び出し駕籠で戦場へと割って入りました。
はい、二度目です「またかオバハン」と思った兵もいたでしょう。
義姫は東北の安定の為に、兄、義光に政宗と和睦するように提案します。
義光は悪いのは政宗で大義は自分にあると考えていたので、ここで和睦するのは
恥辱だと思っていましたが、前回、妹に救われた手前、断る事も出来ません。
そして、80日間の休戦の後、両軍は兵を引きました。
今度は政宗が母に窮地を救われた事になります。
その後も、兄、義光は義姫に手紙を送り外交上の頼みごとをしています。
兄と息子、二人を救った義姫は女傑と言えるでしょうね。
弟を偏愛し、義姫が政宗に毒を盛ったのは事実?
政宗には、同母弟の伊達政道(まさみち)がいて義姫は疱瘡(ほうそう:天然痘)で
片目がつぶれた醜い政宗より、この次男を溺愛したという記述もあります。
1590年、政宗が豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の小田原征伐に参戦しようとした
直前、義姫と政道は、食事に毒を盛り政宗を毒殺しようとし、危うく難を逃れた政宗は
激怒して弟、政道を誅殺したと言われているのです。
しかし、これは遥か後世の資料であり、信憑性は低いと言われています。
事実として政道は誅殺されましたが、義姫は追放もされず、そのまま伊達家に
留まっているからです。
政宗は義姫にとり、実家の最上家と競合する嫌な息子ではあったでしょうが、
だからといって、弟を偏愛して実の子に毒を盛るという事までは
無かったのではないか?と思います。
もっとも、義姫は1594年には岩出山から突如として実家の最上家に
出奔したりしているので、ずっと政宗と仲が良かったわけでもないようです。
性格がキツイだけでは無かった、義姫の心遣い
このような女傑エピソードを見ると、義姫は性格がキツイ女性のようですが
実際には、そうでもなく、秀吉の朝鮮の役に出陣した政宗に小判三両と和歌を送り
政宗を感激させていますし、政宗の正室で江戸住まいをしている愛姫(めごひめ)に
手製の手提げ袋を送り感動されたりしています。
一度は出奔した義姫ですが、実家、最上家がお家騒動から取り潰されると
行く所が無くなり、1622年、政宗が仙台城に引き取りました。
この頃には、母子の確執は無くなっていた様子が分ります。
翌、1623年、義姫は76歳で波乱の生涯を閉じています。
大河ドラマウォッチャーkawausoの独り言
兄、最上義光の書状によると、戦場に駕籠で乗りつけて戦争を止める
義姫の活躍は徳川家康や豊臣秀吉にまで伝わっているようです。
中央にまで、女傑ぶりが伝わるのですから、義姫は当時としても、
大変メジャーな女性だったという事になります。
義姫が今に生きていたら、それこそ総理候補として名前があがる
それほどの女傑になっていたでしょうね。
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