今回は、サラリーマンなら、誰でも一度は手にした事がある勤務評価について当時の資料を元に解説してみます。1800年前にも存在した勤務評価表には何が書かれていたのでしょうか?
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この記事の目次
三国志の時代、官僚機構は世界一整備されていた
中国は記録が分る周の時代から、その官僚機構のピラミッド型に整備されている事は群を抜いていました。
漢の時代には、上は天子から三公、三省、九卿があり、九卿の下には、それぞれ直属の府が存在して、その下に沢山の官僚が連なり、首都近辺の治安を預かる司隷(しれい)校尉や、西域担当の西域都護(とご)、司隷校尉の下にある、都知事格の河南尹(いん)、京兆尹が存在し、地方では州刺史、州牧、大守、県令、等、多くの役職が存在し、官僚は上から下まで併せれば数十万人という規模になりました。
そうなると、統一された勤務評定や昇進、降格の基準が必要になりそれらはテンプレ化して画一運用されます。
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後漢の時代の木簡の勤務表
では、ここで毎度お馴染み、はじさん特製イラストです。今回は後漢の時代に辺境で警備にあたっていた単立さんの勤務表を参考にします。すべて漢文なので現代文に直すと木簡の内容は以下の通りです。
“甲渠侯官 窮虜(きゅうりょ)燧長(小さな見張砦の隊長)簪裊(さんじょう:爵位下から3番目)の単立(ぜんりつ:名前)功は五、労は三カ月、能筆家であり会計に強く、官民を治めるのにすこぶる法律と刑罰に通じている 年齢は三十歳。身長は172センチ、応令(勤務規定に合格)居延中宿里の住人で、勤務先は、自宅から七十五里(30キロ)居延部の所属“
当時の昇進規定は、功と労の二つから成り立つ
後漢の時代の勤務評定は、木簡にも記されている功と労から成り立ちます。功とは、手柄であり、こちらは五という認定がされています。労とは、勤務日数であり、これには三カ月という認定がされています。
つまり後漢の時代には、個別の功積と勤務日数により、評価が下され、昇進の目安になっていた事が分ります。こちらの単立なる人物は、会計と法律にすこぶる詳しいとあるので、かなり褒められた勤務表になり、近い間に出世したかも知れません。
逆に、ダメという評価をもらったケース
もちろん、功と労を積みあげ出世していく人がいれば、評価が芳しくなく、落ちていくという人もいます。後漢の時代は、日本の高度経済成長期とは違いエリートではない限り、年功序列のエスカレーター昇進ではないようです。そこで、ここでは残念なケースの張札さんのケースを挙げます。
甲渠当曲燧長 □里公乗張札年四十七 能不宜其官
換為殄(てん)北宿蘇第六燧長代徐延寿
こちらの意味は、以下のようなものです。“甲渠当曲の燧長の□里の公乗(こうじょう:爵位、下から8番目)張札(ちょうさつ)、年齢四十七歳、その官の能力に不備があり、殄北宿蘇の第六燧長の徐延寿(じょえんじゅ)と交代する“
こちらは、降格とまではいきませんが、燧長の能力に疑問があり、別の地区の燧長と交代するという命令書です。張札さんは47歳と、この時代ではかなりのお年寄り、、爵位の公乗は、一見、高いようですが、爵位として威張れるのは、その上の五大夫からで、それより下は庶民でも取れたのでほとんど無価値でした。
背を丸め、弱々しく溜息をつく張札さんの声が聞こえてきそうです。
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テンプレに従い、警察署長 劉備の勤務評価を創作してみた・・
これらの勤務評価は、テンプレに沿っていて、辺境の警備でも、田舎の役人でも同じものが流通していたようです。という事は、この木簡から、劉備(りゅうび)の勤務評価も創作できそうです。
何度か離職と復職を繰り返している劉備ですが、折角ですから、黄巾賊討伐の手柄で安熹(あんき)県の県尉になった頃の劉備で作成します。
中山国安熹県尉 上造劉備 中功三 労半年 能書会計
治官民頗律令 文 二十四歳 長七尺五寸 応令
安熹県 上里衙 家去 二里
能書会計や治官民頗律令などは、お決まりのテンプレだと思うので、そのまま借用し、劉備の爵位は分りませんが、二十五歳なので、下から二番目程度ではなかったかなと思います。住所は分りませんが、県尉なので住居は社宅で住み込みと考え、衙(役所)と書き、県の役所までは二里800メートル位にしました。
まあ、頑張っていたらしいですが、督郵のせいで、ほどなく解雇され放浪人生が始まるのは、皆さま御承知の通りです。
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三国志ライターkawausoの独り言
たった一枚の木簡から、様々な事が分るのが歴史の面白い所です。当時の人も、なんとか手柄を立てて上に登ろうと一喜一憂しながら頑張っていたんでしょうねえ・・本日も三国志の話題をご馳走様・・
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