西上作戦は武田信玄が亡くなったことで失敗に終わってしまいます。
信玄死後、武田の当主として指命を受けていたのは武田勝頼(たけだかつより)ではなく、
勝頼の嫡男である武田信勝でした。
しかし勝頼の嫡男はまだ幼かったために勝頼が代理として、
武田家の当主に就任することになります。
こうして武田家の次世代当主代理に就任することになった勝頼ですが、
甲斐へ帰還した後に問題が発生してしまいます。
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宿老と勝頼側近団の暗闘
(内藤昌豊 wikipedia)
勝頼は甲斐へ帰還すると宿老である内藤昌豊(ないとうまさとよ)が怒鳴り込んできます。
彼は勝頼に会うとすぐに「お館様。側近の長坂光堅(ながさかみつかた)は勝頼様に讒言を行った
との噂が流れております。これは本当でしょうか」と詰め寄ってきます。
勝頼は「そんなことはないぞ」と言って彼を宥めますが、昌豊は全然収まる気配がありませんでした。
そこで勝頼は「1今後昌豊の悪口が聞こえてきたらしっかりと聞き分けること、
2今までどおり粗略に扱わないこと」などを記した血判状を昌豊へ差し出します。
この血判状を差し出したことによってようやく昌豊は落ち着きを取り戻し、
勝頼の元を去っていくことになります。
それにしても信玄が甲斐へ帰還してから数日しか立っていないのにも関わらず、
新旧家臣団の軋轢が表面化しており、
勝頼はこれを止めるためには血判状を用いなくてはならないほど
武田新当主の権力は低下していることを示しているエピソードではないでしょうか。
信玄の死がバレた!?
信玄の遺言の中で「我の死は三年間喪に服し、他国へバレないようにせよ」と命じます。
しかし実際は色々なところで信玄の死はバレておりました。
一番最初に知ったのはなんと飛騨(ひだ)の豪族である江馬氏の家臣が信玄の死を
上杉謙信の家臣へ知らせております。
また徳川軍も信玄死すとの噂を聞いて奪われていた三河方面に攻撃を仕掛けて、
武田軍出方を伺っております。
さらに北条家においては武田家に自ら使者を送って勝頼が後継者として認めています。
このように意外と秘密にしていた信玄の死ですが、近隣大名達はそれぞれの情報網を使って
信玄の死を調べ上げていたようです。
徳川家の反攻作戦
徳川家は信玄死すとの噂を聞くと武田家を試すために奪われていた三河の領土へ
攻撃を仕掛けて行きます。
もし信玄が生きているのであれば徳川家は再び危機的な状況を迎えることになりますが、
信玄がいないのであれば強烈な反撃はないであろうという計算の上に成り立っている工ですが、
一種の賭けであることにかわりない行動と言えるでしょう。
この賭けは家康の勝ちとなり、武田家に攻撃を仕掛けても強力な仕返しはありませんでした。
この時勝頼は徳川と相手をしている暇などほとんどなく、信玄死後の重臣や親族衆、
家臣団との関係構築や行政関連の仕事がいっぱい有り反撃に出ることができませんでした。
勝頼は黙ってこのまま徳川の好きなようにやらせるわけにもいかないので、
武田信廉(たけだのぶかど)、穴山信君(あなやまのぶきみ)、
武田信豊(たけだのぶとよ)等に命じて徳川軍に攻撃を受けている長篠城救援に赴かせますが、
長篠城は武田軍が開城してしまったため救援することはできませんでした。
その後も徳川軍は武田家の領土へ攻撃を行っていき、
奪われた土地を奪い返していくことになります。
戦国史ライター黒田廉の独り言
武田勝頼は多くの問題を武田家の当主となった時に発生してしまいます。
三国志の曹操の跡を継いだ曹丕にはこのような面倒なことはなかったですし、
劉備の跡を継いだ劉禅にもこのような面倒な問題が発生しているとは聞いたことがありません。
上記のふたりの家のことを考えると勝頼が新当主に就任した瞬間に
このような問題が発生するのが異常であることがお分かりいただけたのではないかと思います。
参考文献 新人物往来社 武田勝頼 柴辻俊六著など
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