突然ですがはじめての三国志を読んでいる読者の皆様は「シュトヘル」と
言う漫画をご存知でしょうか。
この漫画は西夏と言われる国の文字を焼き尽くして歴史の中から抹消しようとしている
モンゴルのハーンから西夏文字を残そうとするモンゴルのハーンの息子ユルールと
金の女兵士であったシュトヘルが織り成す歴史ファンタジーです。
私の中ではキングダムを超える歴史漫画であると思っているので興味がある方は読んでください。
そしてこのシュトヘル現在物語は佳境を迎えているのですが、
この作品の中で南宋の領土である成都に都江偃(とこうえん)と呼ばれるダムができます。
なんとこのダムは三国志や春秋戦国時代にも関係があるらしいので今回調べてみました。
関連記事:なぜ趙雲は劉備に仕えたのか?損得勘定の心理とは無縁の忠義の漢?
この記事の目次
都江偃とは一体何なの
(都江堰全景 wikipedia)
都江偃とは一体何なのでしょうか。
都江偃は眠江(みんこう=四川盆地を流れる川)が山岳部を抜けて成都平野へ流れる部分に
築かれている施設です。
この施設を使って成都平野に向かって眠江の水を成都方面に流すことができ、
成都周辺の村々は眠江の水を使用して灌漑や水運などに利用してきました。
さらに現在でもこの都江偃は使用されており、世界遺産として登録されております。
都江偃はいつごろ築かれたの
都江偃が築かれたのはなんと紀元前の秦の時代。
秦の時代でも最強と言われた時代である昭襄王(しょうじょうおう)の時代です。
昭襄王は蜀郡の太守に対して「蜀近辺では水害が多く多くの民衆が困っている。
そこでお前に蜀周辺の水害をなくすような施設を完成させよ」と命令。
この命令を聞いた太守はまず周辺地域の調査に乗り出します。
そして彼が調査を開始して数ヵ月が経った頃ようやく水害が発生する原因を突き止めます。
蜀が水害に見舞われる原因とは
蜀が水害に襲われる原因は雪解け水が原因でした。
春先になると温度が上がり山に積もっていた雪が水となって眠江に流れ込んできます。
この時の雪解け水が膨大であるため眠江周辺では毎年洪水が起きるのであろうと
蜀郡の太守は断定します。
こうして眠江が洪水となる原因を断定した蜀郡の太守は急いで昭襄王に調査結果を報告。
この報告を聞いた昭襄王は「解決策は考えているのであろうな」と
彼に解決策があるのか質問します。
すると太守は「もちろんあります。ダムを作ることが一番早くこの問題を解決できるでしょう。
しかしこの地点にダムを作ってしまうと蜀の奥地へ軍勢を送る際、
非常に困難となるでしょう。そこで私が考えた案ですが、
眠江の中程にダムを建造します。
このダムの役割は洪水が起きる春先の眠江の水量を本流と分流に分断する役目を負います。
分流はこれから工事を行い運河として建設する必要がありますが
この方法を取れば眠江の川にかなりの水量が増えない限り、
洪水を起こすことはないと考えます。」と洪水防止案としてダム建造計画を提案します。
昭襄王はこの計画を聞いてすぐに協議にかけて相談してみると蜀郡太守に告げた後、
彼を下がらせます。
昭襄王は配下を集めて蜀郡太守が提案したダム建造計画を朝議にかけます。
すると配下の文官達は大いに賛同し、すぐにお金を集め始めます。
数日後再び昭襄王に呼ばれた蜀郡太守は「お前が考えた眠江にダムを造り、
洪水を止める計画だが、配下の者達も賛同した。
そしてお前をダム建造計画の総責任者として任命するゆえ、
できるだけ早くダム建造を行い眠江周辺の水害をなくすように努めよ」と命令を出します。
そして昭襄王は彼に莫大なお金と建築工事に使用する奴隷や民衆を使う権利を与えます。
こうして蜀郡の太守が提案したダム建造計画はゆっくりと動き始めます。
ダム工事開始
蜀郡の太守は昭襄王(しょうじょうおう)からダム建造に係る資金と
人足を指揮する権限を与えられるとすぐに領地である蜀に戻って建造を開始。
まず彼は本流と分流に水を分けるべく堤防の工事から着手していきます。
蜀郡太守は眠江の水を本流と分流に分けるためにまず大量の竹かごを人足に作らせます。
そして完成した大量の竹かごの中に石をいっぱい入れて重量を増やしてから、
これらを眠江の中に投入します。
そしてすぐに人足を眠江の中に入れて木材で作ったテトラポット状木枠で竹かごを固定します。
この結果眠江をとりあえず分断する建造物の制作を終了します。
岩盤の亀裂を入れ、運河を造る作業がちょー大変??
蜀郡の太守はこうして眠江の水流を変える建造物の制作を完了し、
次なる作業を開始します。
次の作業は岩盤に亀裂を入れて土を削り運河を造る作業です。
しかし当時は爆薬など岩盤に亀裂を簡単に入れることのできる道具がありませんでした。
その為、蜀郡の太守はどうすれば岩盤に亀裂を入れて運河を作れば良いか、
途方にくれてしまいます。
途方にくれてしまった蜀郡の太守ですが、ダム建造地の場所を歩き回ってみたり、
治水事業の経験がある同僚に話を聞いてみたりした結果、一つの案を思いつきます。
彼が思いついた案というのは玉壘山の岩盤を削るために、
岩盤を高熱で熱した後、冷たい水をかけて岩盤に亀裂を入れようと考えます。
この作業で岩盤に亀裂が入って行くことが確認されるとすぐに岩盤を削る作業を行います。
しかしこの作業はものすごい時間と労力のかかる作業でした。
この間に玉壘山の東部に灌漑水路を完成させております。
こうして地道な玉壘山の岩盤掘削作業の結果、
8年もの時間をかけて20メートルほどの運河が完成します。
だが蜀郡太守は病に冒されて亡くなってしまいます。
息子の代にようやくダムの形が完成する
蜀郡の太守はダム完成を見ることなく亡くなってしまいます。
だが工事はここで終わりではありませんでした。
昭襄王は蜀郡の太守の息子である李二郎へダム建造工事を引き継がせて行わせます。
李二郎は父が残したダム工事の事業を引き継いで、運河の幅を拡大させる工事と
眠江を本流と支流に分ける中洲の工事を行います。
こうした工事を行った結果ついにダムは完成。
このダム名を「都江偃」と名づけます。
そして都江偃が完成したことで蜀の地は眠江の農業用水が通り、
以前と比べて農業生産能力は飛躍的にアップ。
蜀の地は大穀倉地帯へと進化を遂げることになります。
その後も工事は続く
こうして都江偃は完成しましたが、
昭襄王の時代以降も都江偃の増築・修理の作業は断続的に行われており、
前漢時代の蜀郡太守は成都平野東部へ水路を伸ばします。
そして後漢時代には成都平野の西南部に水路を伸びていきます。
その後も歴代の中国王朝が都江偃の水利を利用するために水路増築を行っていきます。
都江偃を重視した後漢王朝と孔明
漢王朝は都江偃の重要性を理解しており、地震や天災によって都江偃が破損するとすぐに修理や補強工事を行って行きます。
また後漢のポンコツ皇帝である霊帝は都江偃を守るために「都水長(とすいちょう)」、
「都水椽(とすいえん)」と呼ばれる都江偃の管理と維持を目的とした官職を作ります。
また三国志の時代に登場するスーパー丞相である諸葛孔明は都江偃を守るために
常時1000人以上の兵をここに駐屯させて守っていたそうです。
ダムライター黒田レンの独り言
数千年の時を経ても動き続けている都江偃。
古代中国の土木技術がすごい事と当時の中国の人々がどれだけ先端技術を有していたのかが、
わかる代物でしょう。
世界遺産に登録されているのもうなずけるでしょう。
また現在でも都江偃を利用した水路拡張工事が進んでいるそうです。
「今回のダムのお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
関連記事:【三国志if】もし袁紹が官渡の戦いで曹操に勝ってたらどうなってたの?
関連記事:「後漢の州人口」から読み解く群雄の力!曹操が袁紹の本拠地を欲しがった理由も分かる!