※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。
三国志は、一人で万人を倒す猛将が登場して戦いの限りを尽くす物語です。しかし、猛将や知将達の破壊の一方で華佗(かだ)は病に苦しむ人々を救う医術の力で世の中を再生させる事に貢献していきました。
彼の医術は時代を超越したもので、曹操(そうそう)は彼を主治医にしますが、ある悲しい理由で、華佗は曹操に疎まれ獄死してしまうのです。
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華佗は徐州で遊学し次第に名を知られる
華佗元化は(かだ・げんか:?~208年)はどこで産まれたか分かりません。一説では、曹操と同じ豫(よ)州沛国譙(しょう)県であるとも言われています。華佗という名前も本名ではなく、先生という意味が変化したものだそうです。中国では名門は何十代にも渡り一族の名前が系図に残りますから、そこから考えると、華佗は下級身分の出身で地位は高くなかったのでしょう。
華佗は若い頃に徐州で遊学し「経書」を学んだようです。そして、陳珪(ちんけい)によって孝廉(こうれん)という行いの良い人を役人に取り立てる制度で推挙されたり、三公の黄琬(こうえん)によって招聘(しょうへい)を受けたりしていますが、いずれも断っています。伝承によると華佗は百歳近い高齢であるにも関わらず、若々しい姿で、養生の術に長じていたようです。
華佗スーパーDrぶりを発揮、体操から外科手術まで・・
華佗は、健康増進の方法として体操の元祖というべき五禽戯(ごきんぎ)を考案します。これは、熊や鳥、虎、鹿、猿というような動物の動きを取り入れた体操で毎日行う事で新陳代謝を活発にし、汗をかいて食事も美味しくなるというもので五禽戯を行うと90歳を超えても病気知らずだったそうです。
また、華佗は、麻沸散(まふつさん)という全身麻酔を施して腹部を開く外科手術を行っていたという記録もあります。それに、お酒に薬草を混ぜてお正月に飲む屠蘇(とそ)も華佗が始めたようです。このように、華佗は時代を超えたスーパーDrだったのです。
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スーパーDr華佗の診察日記 寄生虫退治
神医と讃えられた華佗は、中華各地を転々としつつ、病人を治していきます。曹操に仕えた陳登(ちんとう)は生の魚が大好きでそのせいで寄生虫が胃に棲みつきます。胃の不快感でうめいていると、たまたま、近くにいた華佗が虫下しの薬を2升調合して半分づつ飲ませると陳登は口から虫を吐き、すっかり治ってしまいました。
しかし、華佗は、
「この病気は3年後に再発するので、その時までに良い医者を探しておきなさい」
と言って立ち去ります。3年経過して陳登の病は再発しましたが、近くに名医がいなかったので、そのまま死んでしまいました。
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スーパーDr 華佗の診察日記 怒らせれば治る
ある郡の大守は、重病に苦しんでいましたが、華佗が診断すると、思い切り怒らせれば治るという事が分りました。そこで、華佗は高額の治療代をふんだくりながら、ろくに診断もせずにすごし、大守が治療するように催促すると、大守の悪口を書いた手紙を残して逃げました。手紙を見た大守は怒りのあまり数升の血を吐き、それで病気は治りました。
スーパーDr華佗の診察日記 双子の流産
李通(りつう)という人の妻が流産した後に重病に罹りました。華佗が診断すると、お腹に子供が降りずに残っていると言います。しかし李通は、「すでに子供は降りた」と言って信じません。一時は回復した妻ですが、しばらくすると再び腹部の激痛を訴えます。李通が再び華佗を呼ぶと、流産した子供は双子で一人残っていて、腹部を圧迫していると診断し外科手術で、もう一人の子を取りだしました。以後、妻の病気は回復しました。
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